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2018年9月

2018年9月30日 (日)

来てください

黙示録 22章17節     【新改訳2017】
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちは神の子どもだ。だから神の護りがある。患難時代の後半は携挙によって守られるが、前半も私たちはあらかじめ、何が起こっていくかということを知らされるので、守られて行く。
そのことを例えれば、地震や津波にいきなり遭遇するのと、そのことをあらかじめ知っていて対応するのと同じぐらい、決定的な違いがある。聖書を信じるならば、次の三つの地震を知ることで、患難時代に目を醒まして備えることができる。

1回目の地震は封印の六つ目が開いた時。ヨエルの預言が成就するので、ここから後の雨、終末の大リバイバルが始まるかも知れない。

2回目が第六のラッパが吹かれた時。この時の地震はエルサレムなので、「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、イスラエルに大規模なメシアニック化が起こるのかも知れない。仕上げのように、携挙がすぐ後の第七のラッパと共に起こるので、
私たちはこれ以降を天から見ることになる。
3earthquake_8
3回目の地震はその後、第七の鉢が地にぶちまけられてからで、再臨があり、イスラエルを中心に、地球の様子がすっかり変わってしまうほどの地震が起こる。これを機に千年王国が始まり、ゼカリヤ14:16にある「諸国の民が礼拝をしに上ってくる」ようになる

2018年9月23日 (日)

神のみこころを知る

ローマ 12章1-2節     【新改訳2017】
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 聖書は神の言葉であり、その聖書を通して私たちは神のみこころを知ります。その方法は大きく分けて二つあります。第1にイエス・キリストのゲッセマネの園で祈りにその典型例があります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26章39節)
 キリストは神でしたが、同時に完全な肉の体を持った人でもありました。受けなければならない想像を絶する苦しみは、人々を愛し尽くした末の酬いでした。これは弱さというより、まったく理不尽な酬いを前にして、キリストはみこころの確認を求められられたのです。重要な点は、ただ神のみこころを確認しただけで、従うという意思に微塵も揺るぎがなかったことです。「何があっても従う」これがみこころを知るための一つです。神のみこころは「十字架の上で死になさい」でした。

 「みこころを知る」もう一つは、「神のご命令のみこころ」とでも言うべきものです。どんなに悪いことにでも「感謝しなさい」(1テサ5:18)、いつでも「喜びなさい」(ピリピ4:4)は神の命令ですが、私たちへのみこころです。特に「愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)は主イエスからの重ねての命令で、厳命とでも言うべきものです。
 しかしながら現状は聞き従っているとは思えません。知っていても実際に従おうとしない不服従がみられます。自分を見、自分に到底行う力がないのを知っているので、はなから試みないのです。

 確かに私たちには行う力がありません。神はそのような私たちの力をよくご存知なはずです。つまり、自分の力では「愛する」「感謝する」ことができないことを告白し、「悔改め」て全面的に神により頼むことを期待されているのです。神に期待し、心から願うことによって、神によって私たちは新しくつくられるという真理が開かれるのです。本日の聖書の2節に「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば‥‥‥」とあるのは、このことです。
 どうか謙遜になって、この神のあわれみと恵みを無駄にしないよう、みこころを知り、それを行える者に、自分の力ではなく、神によって変えていただきましょう。アーメンでしょうか?

2018年9月16日 (日)

けして見捨てられない

1ペテロ 2章6節    【新改訳2017】
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

本日の聖書箇所で,シオンという言葉は、世俗化したエルサレムに対比してのものでしょう。それに対しシオンの丘は、「神の住む丘」、「神の都」です。シオンとは「天のエルサレム」をも暗示しています。

さらに「選ばれた石」とはイエス・キリストのことであり、失望という言葉はKJVで「shame=恥」と書かれています。このみ言葉全体の理解は、人々に見捨てられたキリストを信じるならば、神の国へ必ず行けると言う意味でしょう。
また、このことを非常に言い当てている、神は「決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)のみ言葉は,このことを端的に言いあらわしていると言えましょう。

さて神の約束はまことに心躍るものです。この神にあって霊的に成長させられるならば、私たちは次の四つの栄光にあずかります。「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」となります。実際、キリストの再臨の後に来る千年王国で、私たちはキリストと共に王となり、人々を導き執りなす者となることは聞き及びでしょう。

信仰をまっとうし、天のエルサレムに引き上げられてからの私たちは、このような栄光の召しがあり、なんとしてもそれを望み、まっとうできるように、この地上での命を尽くしましょう。その力は私たち自身にはなく、内住される聖霊様にどれほど働いていただけるかにかかっています。聖霊様中心の自分になるために、熱心に<霊の乳を求め>ましょう。
また聖霊の力でもって<肉の欲を避け>、<善を行えるよう祈り>、<与えられた自由を神に従うものとして用い>、<すべての人を敬う>と言う信仰の行いが生じて行くのです。つまり、神が私たちに望んでおられるのは、次のみ言葉に集約して言うことができるのです。
ですからそのようにこの世の時間を用いるため、ご一緒にお祈り致しましょう。

「それはあなたがたが残された時を、もはや人間的な欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです(1ペテロ4:2)」

2018年9月 9日 (日)

神との交わり

1ヨハネ 1章3節     【新改訳2017】
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

神を信じたクリスチャンには三位一体の聖霊という神様が内住されました。本日の聖書箇所「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」です。
 私たち被造物である人が神と交われようにするために、神は世界の始まる前から私たちを造られ、時至ってこの世の世界に命をもって送り出してくださいました。交わりを開くのためにアダムとイブの追放があり、ノアの箱船、アブラハムへの約束があり、イエス・キリストの贖いがありました。すべては十字架と復活を信じる者に聖霊を与えるためであり、交わりを開くためでした。人は聖霊を通して、父と交わるのです。

 続く8節に不思議なことが述べてあります。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」と。聖い神様とお交わりをするのに、全くふさわしくない真逆の自分の罪を告白しなければダメだ、なんて言われているのです。

 これには三つの真理があると思われます。一つには、高慢の逆、へりくだりです。 真に十字架を信じた人には必ず聖霊が内住されています。聖霊の聖さは人の罪を明らかにし、高慢を砕きます。へりくだりは聖霊の内住を現し、神に接する基本的態度です。

 次に罪を認め、告白するならば必ずそれは赦され、まったく無かったこととされます。つまり、罪を告白した直後は、神との交わりにふさわしいきよい者とされるのです。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。【Ⅰヨハ 1:9】

 最後に罪を告白する者に、神は賛美と喜びを与えてくださいます。それは罪の縄目から解放された喜び、真に自由とされた悦び、深く愛され愛している歓びです。

 大切なことは神と交わるということです。これは地上のわずかな時間を越えて、永遠の交わりの、ホンのプロローグに過ぎないと言うことです。次のみ言葉があるように、地上の働きは天とリンクしており、故郷である天に凱旋するためなのです。
まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。マタ 18:18】

 それでみなさん、ご一緒に次のみ言葉のお祈り致しましょう。
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。1ペテロ4:2】

2018年9月 2日 (日)

感謝

エペソ5章20節     新改訳2017

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

「感謝する」
信仰との関係 神様は私たちを愛し、私たちと交わりたいがために、十字架と復活、そして信じる者に聖霊を与えてくださいました。聖霊は私たち人に送られますが、それは神なる聖霊様を通して、私たちが交わるためなのです。ですからCaki
交わりが神様の究極的な目的なのです。

表裏一体 ではその交わりは信じる信仰から始まります。分かり易くするために、いささか乱暴ですが、ケーキに喩えてみましょう。ケーキはスポンジと呼ばれる台と、その上に生クリーム、最上層にイチゴなどのデコレーションが乗ってケーキになります。差し詰めスポンジ部が信仰、生クリーム部が感謝、デコレーションは賛美でしょうか。信仰と感謝は表裏一体のものですし、賛美はそれを高らかに歌いあげるものです。

ただ感謝する このように見ていった場合、信仰が一切無報酬で、人間の努力も清さも必要とされなかったように、感謝もこれをしたら何か恵みを得られるだろうというような下心があってはならないのです。ただし、信仰は「ただ信じる」ということが唯一の条件でした。感謝も、自分自身に希望を失う絶望的なことになれば、それこそ神にのみ希望を持て生きる決心のチャンスです。
 「人間的な判断はせず、神様が許されたことのゆえにすべてを感謝する」、この絶対的な肯定が感謝のポイントです。例外は一切ありません。この上に立つ賛美は、ですから感謝の麗しいシンボル、デコレーションだと言えるでしょう。

神を確信する 神の愛は無償の愛~道徳の教科書「お母さんの請求書」(※子どもがお使いなどをお金に換算し母に代金を請求し、それを読んだお母さんが子どもに代金とお母さんの請求書を渡した話)を朗読。人間の親ですら我が子を愛します。まして神は、さらにすぐれた愛を私たち信じる子にくださっています。自分の感覚からではなく、聖書に書いてある神のことばと約束を信じましょう。そして約束を大いに声高らかに感謝しましょう。

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