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2018年11月25日 (日)

聖霊の目的

ルカ11:5-13 (13節中心)   【新改訳2017】

 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 この聖書箇所はちょっと聖書を読んだ人なら、大抵は覚えておられる所でしょう。示された「神さまが私たち人に、最終目的として聖霊を与えてくださるのはなぜか?その目的とは?」に思いをはせる時、この箇所が浮かんできました。神さまとは、このようなお方なのだと・・・。

 ここでのポイントは「必死さ」です。同じく「必死さ」を見るなら、悪霊につかれた娘を持ったシドンの女の叫び、エルカナの妻ハンナの祈りも参考になるでしょう。神さまは私たち人を通してご自分の目的を果たされますし、御栄光を現されます。人を用いられる時、神様は人の「必死の願い」をかなえる形でお実現されるのです。もっとも、そのように導かれる面もあるわけですが。そういう意味で「求めなさい。そうすれば与えられます。」は「必死になって」が大切になります。が、人間がそうなろうとしても、なかなか難しいものです。

 今から四十年も前の私の経験ですが、長女が生後三十日ぐらいで、前妻が腰を痛めて突然寝たきり状態になり、その検査と治療のため入院するハプニングが起きました。当初、娘には粉ミルクで大丈夫だと思っていたのですが、実際にやってみると口の周りに発疹が出始め、診察してもらうと人工乳のせいだとわかりました。粉ミルクは飲ませられず、かといって母乳も新生児は病院に立ち入り禁止で飲ませられません。しかし時間が来れば乳児は乳が欲しくて「おぎゃあー」と泣き叫びはじめるのです。そしてところ構わず、私の胸にも吸い付き始めました。

 私はこの子におっぱいを飲ませてやりたくて、やりたくて、神経は正常ではなくなってしまいました。どうしたらよいか、気が狂うほどになりました。父の葬儀にも涙を見せなかった私が、生まれて初めて、赤ん坊を抱えて泣いてしまいました。

 罪深い人の親ですらこうなのですから、天のお父様は私たちの求めに、何としてでも応えてやろうとしてくださっており、お心を痛めてくださっていることは、痛いほど分かります。父に求める者に、父は今年の年間聖句のように、遂には30倍、60倍、100倍の結果を酬いてくださるお方なのです。

 話を戻します。この聖書箇所、ちょっと変に、唐突に思われませんか?13節「それならなおのこと、天の父は(最上の良いものとして)、ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」の≪聖霊≫と言う言葉です。その前後に、この聖霊という言葉や、ニュアンスがまったくありません。こういうところに、つい、神さまの本音が出た、私はそう思うのです。そうです、「聖霊」こそ主がお奨めになる最上のもの(ヨハ20:22)であって、私たちが真に求める最善のものです。逆に「聖霊を冒涜する者は赦されない」(マル3:29ルカ12:10)ということにもなるわけです。
 復活についても、生ける神の確信、その交わImg_9519_2りがあってこその「御霊の体」を実感できることです。

 本題に入りましょう。「聖霊」という言葉を使いますが、これは聖霊のバプテスマの≪聖霊≫のことです。確かに十字架を信じバプテスマを受ければ聖霊様が内住されます。十字架によって告白した罪は完全に赦されています。しかしそのような内住される聖霊のことを言っているのではありません。

 私もそうでしたが、聖霊のバプテスマを受けていない人に、「聖霊のバプテスマとは」を語っても、それは体験であり、十人十色であって伝えることは本当に難しいことです。もし受けていないのであれば、ぜひあきらめずに求めて下さい。

 再度自分の話をします。クリスチャンになって30年近く経った40代の後半から50歳過ぎまで、私は何とかして聖霊のバプテスマを受けたたいと願うようになりました。癒やしを求めて長年居た教会を出て、癒やしを求める過程で聖霊のバプテスマがあることを知りました。そうなるとどうしてもほしくなり、東にベニー・ヒン来たればそのイベントへ走り、西にそのような霊的な教会があれば祈ってもらいに行くという何年かを過ごしました。その他、ネットでの掲示板やチャットでも、いろんな方にずいぶんお世話になりました。しかし結果として「聖霊のバプテスマ」は遠く、この燃えるような熱い望みは叶えられなかったのでした。

 叶えられたのは、その熱意を失いかけ、ほとんどあきらめた時でした。一時の情熱を失うと、やがてすさんで自暴自棄になっていきました。クリスチャンの堕落は悪霊たちにとっては大物で見物らしく、その瞬間を見ようとぞろぞろと私の頭上に集まって来ており、期待されて見守っているのがわかりました。それが分かったのは、今しも彼らのぶら下げた鈎針つきの獲物を私が飲み込もうとした瞬間だったのです。「自分が悪霊たちの見物になっている」、ハッとして私は目が覚め、自分の真の状態、本質的な罪に気づいたのです。問題の被害者に自分をし、自分を義としていた罪でした。

 私はあまりのことに三日三晩悔い改め、日曜日が来た時、この時が最初で最後ですが、「もう教会なんぞに汚れた自分は行けない」、そう思いました。しかし行けないと思っていたのに、なぜか車に乗り、入れないと思っていた教会が見えた時、神さまの方で私に触れてくださいました。罪人を愛してくださる神さまの愛がわかった瞬間でした。

 神に触れられた私は、恐れおののき、またそれまでの教会、神が居るか居ないかのようなような曖昧な信仰の教会には二度と行けないと思いました。神は確かに生きておられ、今も働いておられるのです。ですから主の十字架は、神さまが「私の御体は何処にあるのでしょうか?」と言う祈りに応えて導いてくださった教会です。また聖霊のバプテスマはその後、すぐに受けました。まるでアニメ「風の谷のナウシカ」でのラストシーンに近いオームのシーンのようだったのですが・・・。

 本題に入りましょう。聖霊のバプテスマは完全に神の主権に属するものですが、必死に求めるならば、神は与えてくださいます。しかしその下さり方は人それぞれであって、定まったものではないようです。私の場合も熱心に求めましたが「はい、どうぞ」というようなものではありませんでした。自分を徹底的に無とされてからのことでした。考えてみればこれは当然のことです。自分と聖霊様が一つの中に同時に主として住むことはできません。私という自己愛が滅ぶか、少なくとも首位の座を降りなければならないのです。「主よ、主よ」と呼んでいましたが、それは口先だけのもので、本当に主を主としてはいなかったのです。

 次にいよいよ本題そのものですが、十字架は何のため? それは罪を赦し永遠のいのちを下さるためです。復活はその具体的な天上の姿であり実質であって、神の栄光を現すものです。十字架と復活の五十日後、信じて待ち望んだ弟子たちには約束のもの≪聖霊(のバプテスマ)≫が注がれました。が、逆に言えば、十字架と復活は聖霊を送るためにあったということではないでしょうか。それほど聖霊のバプテスマは大切なもの、神が人に与えようとされている最善、最高のものなのです。聖霊によって、改めて十字架と復活が大切なものにもなるからです。これは神の目的なのです。

 大宣教命令も聖霊のバプテスマの力なくしては絵に描いた餅です。私は三十年近くのいわゆる福音派の教会でいやと言うほど体験しました。(※ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。」)(※使1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。しかし聖霊のバプテスマを受ければ分かることですが、十字架も復活も聖霊によって、リアリティーを持って我がこととわかり、待ち望むようになります。その意味で、殉教も恐れることがなくなっていくことでしょう。信仰が堅くされるこれらのことすら、ある意味、副次的な者ものに過ぎません。

 神が下さる聖霊のバプテスマの目的は、ずばり「交わり」だと今は思っています。考えても見てください。神は子として私たちを愛してくださっています。父としては子に、最善なものを与えたいと思っていらっしゃいます。そして「子ども(=私たち)が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇」でなく、もっと素敵なもの、それは13節の「それならなおのこと、聖霊を」の「聖霊」なのです。聖霊を通して私たちは神さまと交わります。子としての実質が聖霊であり、子としての証印が聖霊なのです。

 聖霊を通して私たちは父と交わることができます。親は子と交わりたいのです。幼かろうと、出来そこないであろうとも、そうなのです。また子も、実の父を知りたい、父と交わりたいと願うのです。もしそうでないなら、それはもはや親子ではありません。せいぜい継子か、または私生児です。
 父は聖霊を通しての交わりによって、ご自分のみ言葉を解き明かしてくださり、祈りに応えてくださいます。また父の、声にならない声を聞きます。九つの聖霊の賜物も父から来るものであって、教会のものであり、わたしのものではありません。自分に与えられて得られるものだと誤解している人もいますが、父からの預かりものであって、聞き従って用いるだけのものです。

 何よりも、私たちは聖霊さまを通して日々交わり、神さまを深く知ることによって、この方を信頼し、深く愛するようになります。神の愛には到底及ばないものの、愛には愛をもって、ただ応えて行く。その結果として、自分よりも神さまを本当に愛するようになるのです。
 よく聞き従いと申しますが、その本質は神を愛するからだと思います。何とかして愛する方の思いと計画を実現したい、それがみ心を行いたいという願いとなり、主が用いて下さることになります。それも深く交わることによって、相手の考えていること、願っていることがかなりわかるようになるからです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、「聞き従い」とは聖書に代表される神のことばや教えを逸脱せず、守る、従うかも知れませんが、聖霊のバプテスマを受けてからの聞き従いとは、「(自ら進んでの)どうぞ私をお用い下さい、させてください」なのだと思っています。神様は愛なるお方なので、命令を好まれません。この段階では神は、私たちの自由意志を尊重して下さるのです。これが神が私たちに聖霊を与えようとしてくださる目的だと思っています。繰り返しますが、神は私たちを使用人や兵隊のように、何事かを命令して用いようとしておられるのではなく、私たちの意思を尊重し、願いを生かすようにして私たちを用いようとしておられるのです。これって、素晴らしいことではありませんか。

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