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2018年12月

2018年12月30日 (日)

死人が神の声を聞く時

ヨハネ5章25節      新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

「死人」には2種類あります。一つはほとんどの日本人のように、霊と死後の世界を信じないとか、自分の罪がわからず、悔い改める必要を感じない人たちのことです。もう一つは、このユダヤ人のように、律法を守ることで自分を義人だとする人のことです。日本人でも善行とか修行など、行いによって自分を救おうとしている人がいますが、これも同じです。しかしどんなに努力しても、十字架がなかったら罪の赦しがなく、結局は罪がわからない人と同様に滅びのです。

聖書は繰り返し次のように説いています。「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、わたしと福音のために命を失う者はそれを救う」(マタ16:25、マル8:35、ルカ7:33、9:24)

では「わたしと福音のために命を失う」とはどういうことでしょうか。ストレートには「信仰によって殉教する、またその用意ができている」と言うことになりますが、それはキリストに従って、恵としてそのように選ばれた結果です。ですからもっとも大切なことは「キリストのように私たちも神のみこころを求め、キリストのように徹底して聞き従う」ことです。

 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。・・・中略・・・。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。【ヨハネ5:30 】

三位一体の神と子と聖霊の有りようについて、ヨハネは従順を通し描いています。キリストは神のみこころだけを求められ、死に至るまで忠実でした。ですからキリストに倣う私たちも、自分のために生きるのではなく、神の栄光のために自分の人生を差し出して生きましょう。それは日々神のみこころを求めて祈り、明らかにされた使命に堅く立って歩んで行くことになります。

まとめるとまず第一にみこころがわかるという前提があり、次にみこころに従いきる実践があります。自分ではみこころが分からない方は、牧師のような霊的な指導者に従うことが次善の段階となるでしょう。いずれにせよ一日の一番大切な静まれる時間を捧げ、祈りと聖書の時間を第一とすることが神に自分を捧げ、「わたしと福音のために命を失う」者のしるしです。

2018年12月23日 (日)

神のみ心とは

詩篇 73篇26節     【新改訳2017】
 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 

 クリスチャンは本来、祝福されてしかるべきです。しかし人は世を基準にし、自分の描いた祝福が祝福だと思っていますが、神の祝福は人と大きく異なっているのが現実です。
神に忠実で熱心なクリスチャンに、世的には悲惨な、大きな試練がのぞむことが多いようです。教会をあげて応援していたよく知っている神学生夫婦の夫人が、出産後のマタニティブルーで飛び降り自殺しました。息子のように親しくしていただいた篤信の長老の一人娘は、結婚して三日目の朝に、夫は突然交通事故で召天しました。まだまだ例を上げることができます。ひょっとして以前の私も試練を通ったという点では、同類になるでしょう。

聖書では、イエス様がこの世に来られた目的は、行いなどによって自分を義とするような「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(マタ9:13、マル2:17、ルカ5:32)と語られています。つまり世の中の成功者、権力など力ある人にではなく、社会から価値が無いとされていた子どもや見捨てられていた人、罪人と迫害されていた病や弱い立場の人たちのために、です。

それはなぜでしょうか。成功者や力ある人々は自分の罪がわからないからです。罪がわからないので、悔い改めることができません。神を信じていると思っていたとしても、真に罪を告白し悔い改められないので罪が赦されていないのです。「放蕩息子のたとえ」を思い出します。罪を悔い改め父の許に行く時、罪が赦されはじめて父の愛がわかりました。父としては、父権に依る強制でも、命令した聞き従いでもなく、悔い改めて帰ってきた息子ほどいとおしい者はないのです。息子の真実な愛を得たことになります。これが神が願って私たちに求めておられる、神への自発的、自主的な愛です。これに反し、不安や恐れで人を動かし支配しようとするものはすべからずサタン的です。

熱心な、み心のクリスチャンへの試練が多いのですが、それはなぜでしょうか。もちろん神は人をいたぶって居られるのではありません。確かにこの世的なものを失うように見えて、実は試練を通して本当に何が大切か、ちょうど放蕩した息子が何もかも失って自分の姿を知り、始めて父の許に帰ろうと決心したように、自分の真の姿を気づかせてくださっているのです。試練を通してのみ、私たちは自分の真の姿に気づき、世の力を打ち破ることができるとすれば、不幸に見えたすべては神の愛なのです。

2018年12月16日 (日)

神の愛-Agape-

ルカ 15章24節    【新改訳2017】

この子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。

昨日の通読聖書箇所を今日のメッセージとして取り上げました。今回読んでおりまして特に「死んでいたのに」が示されました。父にあろうことか生前贈与を要求し、家を出て行った弟息子は、生きておりましたが自分のしたいことやその欲望に従っていました。弟はすでに霊的には死んでいました。死んでいた、これはどういうことでしょうか。

私たちは、罪を悔い改めて生まれ変わらなければ、そのままでは滅びます。滅ぶとは、神の国に行けないということです。このことを主イエスが繰り返し繰り返し「悔い改めなければ滅ぶ」と語られたことですが、悔い改めるためには、自分の罪が徹底的にわからなければできないことです。

父が赦してくれた生前贈与、それで身を持ち崩すということは容易に想像できたことでしたが、それでも父は赦します。案の定放蕩によって、弟息子は罪のあらゆることを身に知らされました。人々は自分ではなく、自分の金にだけ群がっていたこと、忘恩の憂き目にあい、忌むべき豚小屋で命をつなぎ止める生活に落とされました。ユダヤ人にとって、豚の食べ物を食べようとする困窮さは、すでに人としての誇りも何もかも失っていることを表します。そうなって始めて弟息子は、自分の罪がわかったのでした。

あらゆる自尊心を捨て、どんなに屈辱を味わおうとも、もう一度父の許に帰ろうと決心します。悔い改めの「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません」の言葉を胸に、です。

悔い改めることができたのです。生きている間に、実は自分は死んでいたことに気づき悔い改める者には、神の愛が注がれ、真の生きる意味と目的が与えられます。これが人の親にはできない、神の愛です。

現在逮捕され取り調べ中のゴーンさんは、毎年日産からだけでも10億円の収入があったようですが、それだけでは全然足りなかったようです。人間の欲望というものは際限のないもののようで、その先は、罪が口を開けて待っているようです。

聖書では主イエスが地上に来られたのは病む人のためだとえ語られました。「取税人」「罪の女」「病の人」など、世からはさげすまれており希望がなく、「癒やし」と「救い」を切実に求める人の多くは福音を求め、主を信じました。罪がわかるからです。世で成功している人にはそれが全く分からない事。神の国にはこれほど逆転があるのです。

2018年12月 9日 (日)

罪の赦し

詩篇 32篇1-2節     【新改訳2017】
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

公生涯に入られてからのイエスの評判は、救いや癒やしを通して大きく広がりました。同時にそれを快く思わない当時の宗教指導者たちがいました。彼らは自分たちの権威への挑戦と受け止め、疑い警戒しました。屋根から病人を吊り下ろす背景には、このような人々がたくさん詰めかけ、本当に癒やしが必要な人がイエスに近づけなくなっていたのです。

 さてイエスは、天上から吊り降ろされた人に対し、中風を直すのでなく「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)と罪の赦しを宣告されました。これは少し不思議ではないでしょうか。癒やされたいのに、罪の赦しだったのです。なぜでしょうか。実は罪が原因である病があります。最善は完全に癒やされることです。そしてイエスは真の原因である罪を取り除かれたのです。つまり根本からの癒やしが行われたのでした。

 しかしこれを見ていたパリサイ人は、罪を赦すということが冒涜に映りました。彼らが思った「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」は正しく、「罪を赦す」ことは、神かまたは神に等しい存在のみが実行可能なことでした。
 ですからイエス様が罪を赦されたことは、自分が神であることを宣言したことになります。パリサイ人たちが「冒涜」と感じたのは、イエスが神であることがもっとも分かるべき彼らが、実は一番鈍くて分からなかったという証明です。これは宗教指導者として失格です。イエスは彼らのためにも、真の原因が罪であった証明として、中風の人への即座の癒やし「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(5:24)と言われたのです。

 本日は「罪の赦し」がテーマです。この後イエス様が十二弟子を遣わされますが、彼らに与えられた権威は悪霊の追い出しや癒やしでした。しかし罪の赦しは含まれていません。罪の赦しは神だけができることです。もしイエス様が神でなければ十字架も空しく、罪の赦しはあり得ません。教会は極めて初期から、使徒信条で明らかなように、イエスを神としない異端と戦ってきました。 

 繰り返しますが、キリストが神でなければ赦しはありません。また三位一体の神以外に罪の赦しは無く、人であったマリアや司祭相手にどんなに告解しても、それは無駄というものです。私たちは真に神に赦される信仰の教会であり、罪から解放され、癒やされる祝福を感謝しましょう。この祝福は、5節にあるように罪を隠さず、告白するという前提条件があります。ですから真に赦され解放された者として、証しにおいて主に栄光を帰す教会でありますように。

2018年12月 2日 (日)

処女降誕

ルカ 1章35-45節      【新改訳2017】

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」  
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。


 キリスト教の土台は聖書です。しかし多くの人が初めにつまずくのは、処女マリアが懐妊し、子どもを生むことです。
 このような到底信じがたい奇跡でなぜ福音書は始まるのでしょうか? しかしこれこそが必ず起きなければならない事でした。キリストが三位一体の神であるならば、聖であり罪なき存在です。もしキリストが普通に男女の両親から生まれたならば、どんなに立派な人物であったとしてもアダムの原罪を免れず、その罪ある者が全人類の罪の身代わりにはなれません。聖である神ご自身が受肉して来られた、それがキリストの処女降誕です。
 ほとんどの異端は、キリストの神性を否定し人間だとします。しかし三位一体を信じる者にとって、処女降誕は神ならばおできになると堅く信じることができます。

次に聖書からこの事実を学びます。第一に、イエスの出生にまつわる出来事は、キリスト教のもっとも初期から信じられてきたことです。ルカ福音書にはその著者ルカが、母マリヤから直接聞いたのだろうと思われる記事で溢れています。エリサベツとその胎内にいたヨセフのこと、マリア賛歌、また<シメオンは・・・・母マリアに言った>とか、イエス12歳の時<母は言った「どうしてこんなことをした・・・・」>2章51節<母は・・・・心に留めおいた>などの記述からです。
 さらに、十字架にマリアが立ち会っていることや、弟にあたるヤコブやシモンが聖書の書簡を書くほどになっています。またマルコ6章3節にイエスが<マリアの子で>とあるのも、周囲の人々の中には、イエスを私生児視していた人がいた証拠になります。

 私生児ということが出てきたので関連しますが、ユダヤ教のタルムードではマリアは淫婦だったので私生児イエスを生んだとしています。もしそうならば、婚約者ヨセフは決して結婚しなかったでしょうし、イエスに続く6人の兄弟もなかったことでしょう。さらにまた12歳になって、多くの連れの一員としてイエスが都詣ですることもなかったはずです。

 最後にイザヤ7章14で聖書が処女降誕を預言していました。ですからこれは預言の成就でした。また出生地もミカ5章2-5節にあり、神は時のローマ皇帝すら用いて、160キロも離れていたナザレから移動させ、ベツレヘムで生まれるという預言を成就されました。

 これらのことをまとめるなら、ルカ1章37節の「神にとって不可能なことはありません」という天使の言葉を信じるのが、神を信じる者としての唯一の妥当な結論になります。これを信じない者は、自分の考え、判断を聖書より優先しており、不信仰に該当します。

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