神のみ心とは
✝詩篇 73篇26節 【新改訳2017】
この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。
クリスチャンは本来、祝福されてしかるべきです。しかし人は世を基準にし、自分の描いた祝福が祝福だと思っていますが、神の祝福は人と大きく異なっているのが現実です。
神に忠実で熱心なクリスチャンに、世的には悲惨な、大きな試練がのぞむことが多いようです。教会をあげて応援していたよく知っている神学生夫婦の夫人が、出産後のマタニティブルーで飛び降り自殺しました。息子のように親しくしていただいた篤信の長老の一人娘は、結婚して三日目の朝に、夫は突然交通事故で召天しました。まだまだ例を上げることができます。ひょっとして以前の私も試練を通ったという点では、同類になるでしょう。
聖書では、イエス様がこの世に来られた目的は、行いなどによって自分を義とするような「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(マタ9:13、マル2:17、ルカ5:32)と語られています。つまり世の中の成功者、権力など力ある人にではなく、社会から価値が無いとされていた子どもや見捨てられていた人、罪人と迫害されていた病や弱い立場の人たちのために、です。
それはなぜでしょうか。成功者や力ある人々は自分の罪がわからないからです。罪がわからないので、悔い改めることができません。神を信じていると思っていたとしても、真に罪を告白し悔い改められないので罪が赦されていないのです。「放蕩息子のたとえ」を思い出します。罪を悔い改め父の許に行く時、罪が赦されはじめて父の愛がわかりました。父としては、父権に依る強制でも、命令した聞き従いでもなく、悔い改めて帰ってきた息子ほどいとおしい者はないのです。息子の真実な愛を得たことになります。これが神が願って私たちに求めておられる、神への自発的、自主的な愛です。これに反し、不安や恐れで人を動かし支配しようとするものはすべからずサタン的です。
熱心な、み心のクリスチャンへの試練が多いのですが、それはなぜでしょうか。もちろん神は人をいたぶって居られるのではありません。確かにこの世的なものを失うように見えて、実は試練を通して本当に何が大切か、ちょうど放蕩した息子が何もかも失って自分の姿を知り、始めて父の許に帰ろうと決心したように、自分の真の姿を気づかせてくださっているのです。試練を通してのみ、私たちは自分の真の姿に気づき、世の力を打ち破ることができるとすれば、不幸に見えたすべては神の愛なのです。
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