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2019年1月

2019年1月27日 (日)

神のものとされる

エペソ 1章14節     【新改訳2017】

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ1:14節で聖霊が保証とか、別な言葉では証印と言われています。しかし多くのクリスチャンにとって聖霊が内住されているはずなのに、自分は本当に御国に行けるのだろうか確信が持てない人が多いようです。聖霊の実どころか、自分の心の中は相変わらず罪深い性質であるからです。

人はサタンと神との間にあって、どちらかに所属しています。問題なのは、サタン側は常Photoに人間を支配しようと不安や恐れの霊を送り、絶えず攻勢に出ていることです。神様側はそうでなく、慎しみと控えめで愛に満ち、私たちが神に悔い改めて心を向ける時まで、常に忍耐しておられることです。私たちはその草刈り場であることを決して忘れてはいけません。私たちが愛、喜び、平安を日頃感じていなければ、それはサタン側の攻撃を受けていると理解すべきです。

ではどうして神を信じ、聖霊が内住してくださっているはずなのに、そのようになるのでしょうか。答えは明解です。それはその人が完全に神のものになっていないからです。一つ、その例を取り上げてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカにある、永遠のいのちを求める富める若人は財産を捧げられず、悲しんでイエス様の前から去って行きました。しかし弟子たちやペンテコステで信じた人々は財産をすべて捧げ、一人も乏しい人はいませんでした。どうして捧げることができたのでしょう。それは神を知り、永遠のいのちに比べれば、この世が取るに足りないことを知ったからでした。完全に神のものとなったこれらの人々は、大牧者の神のものである羊とされ、全能なる神が守ってくださるわけで、愛、喜び、平安の内に居続けるのです。

ですからみなさん、祈り求めて下さい。自分のすべてを捧げる祈りができれば、それは「み心」ですから成就します。時が来れば必ず受け取っていただけます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われています(マルコ28:34)。自分を捨てるとは、神に己を捧げることです。今の自分を見てはいけません。神の助けによってその祈りは成就するのですから。

2019年1月20日 (日)

忍耐

✝使徒5:29 「忍耐」     【新改訳2017】

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」

弟子たちの豹変ぶりは、驚くほどでした。50日前には、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」とまで言ったペテロたちでした。が、ご承知のように命惜しさに三度も否定した挙げ句に逃げ出し、それからは恐れのあまり閉じ籠もって祈っていた人たちだったのです。

しかし聖霊のバプテスマを受けてからは一変しました。二度も居並ぶ最高法院の権威者たちを前にし、どんなに脅されようと鞭打たれようと、ペテロたちは死を恐れずに神を選び主イエスの証しをしました。ガリラヤの猟師という無学なはずの田舎育ちが、全くの堂々とした逆転の姿でした。ルカ12:11-12で「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださる」ので心配しなくて良いとイエス様が語られた通りの姿でした。これは彼らが別人になったわけではなく、彼らはただ聖霊に従っていただけなのです。

弟子たちを豹変させた聖霊のバプテスマですがImg_0072_2
聖霊のバプテスマは大きな誤解を生んでいる可能性があります。これは100%神から来るものですから、周りにいる人はせいぜいその執り成ししかできません。聖霊のバプテスマはみこころの時に、みこころの方法で起こりますが、受けた本人に神の実在と愛と恵みが激しく望み、人生の生き方が全く変わる新生を体験します。そのことは受けた人が一番鮮烈にわかることです。

つまり、それまでの自己中心で御利益的な存在=ドラえもんのポケットのように、自分中心に生きていたはずだったのが、逆に神のみこころのみに従う存在になるのからです。

そのような恵みを受けるまで、私たちは忍耐しているように思っていますが、実は神さまの方が、私たちよりももっと忍耐をして待って下さっていたのです。それまでの人生の中で、自分を捨てるという事とは、試練や困難を通して一つ一つ自分への希望を失い、そこに神が愛を持って守って下さり、歩んできたもので、皆さん全員がそこに神の手を見られるはずです。神は忍耐して私たちを長い期間をかけて導き、私たちの信仰告白という実を実らせて喜んで下さいました。神こそ一番に忍耐してくださったお方なのです。このわが神、主をほめたたえましょう。

2019年1月13日 (日)

7つの「I am 」

ヨハネ 10章11節      新改訳2017

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 

 「神さまって、よくわからない」、そういうお方がPhoto_2結構居られます。仏像とかのような偶像が神さまにはないので、そう思われるのかも知れません。しかしヨハネ伝には、それまでの喩えではなく、イエス様が「わたしは○○・・・こういうものである」とわかりやすい七つのステートメント(声明)をしてくださっています。イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハ14:9)と仰っていますので、この七つのステートメンで神さまを理解するのは大変な近道ではないかと思われます。

※七つの「I Am」の表を呈示

 今日はその中でも、四番目「わたしは良い牧者です」に着目してみます。七つの中で唯一人間に喩えてありますし、具体的でわかりやすいのです。ただし、私たち日本人は身近には羊に詳しくありません。それでイマイチ、聖書によく喩えられている羊と羊飼いの関係がわかりません。

 イスラエルの荒野には、狼の群れや時にはピューマが跋扈しており、羊は常に狙われています。そのような猛獣に羊飼いは立ち向かって、自分の守らなければならないはずですが、雇われ羊飼いは自分の命を惜しんですぐ逃げるそうでJesus_seveni_amす。

しかし自分の羊を飼っている本当の羊飼いは、自分の羊を守るためには決して見捨てず、命を賭けて狼たちと戦い、護りきろうとします。

 この羊たちとは神を信じた私たちのことであり、命をかけて私たちを守ってくれる良い羊飼いとは、イエス・キリストのことです。そのためにまず十字架に架かって死に、私たちの罪を贖ってくださいました。またキリストが復活することによって、信じる者には罪に対する勝利、永遠のいのちが与えられました。自分の羊は、決して見捨てられることがありません。そのことは、たとえ道に迷い、はぐれた哀れな1匹の小羊となっても、です。ですから神を信じる羊である私たちには平安があります。

神さまとはそのような方なのです。 

2019年1月 6日 (日)

ひかり

ヨハネ 12章46節      【新改訳2017】

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。

 この聖句で「光」とは神のことを意味し、「闇」とは神の光が当たらない罪の世界を指します。創世記の始めのように、光がなければ在っても、色も形も全体も見えないので認識できません。存在は光があってこそのものです。人に神の光が当たるならば、己の真の姿がわかりますが、多くの人は罪がわからず、闇の中に留まっていることになります。光は罪を知らせ、悔い改めて光である父のもとに立ち返らせます。

 神を信じない人々は、光を知りません。原罪がわからず、人を裁き自己を正当化します。そして悪霊の世界に属していることが当然で、光の子どもを妬んだり、理解できない存在として拒み迫害します。このように闇の中を歩く人は、自分が最終的にはどこへ行くのかを知りません。でも本当は何となくわかっていて、はっきりとは知りたくないのかも知れませんが。

 主イエスはこのような滅び行く人、自分の敵さえも愛しておられました。ご自身もたびたび仰っておられれますが、彼らはイエス様を除くことが神への忠誠であり、奉仕だとすら思っていたのですから、最後の審判に本当のことを知ったらどれほど驚くことでしょうか。「(メシアである)しるしを見せろ」と迫るユダヤ人たちのに、どんなしるしを見せてもそ無駄であることまでイエス様はご存知でした。にもかかわらず、最後の最後に生まれつき見えなかった人を直し、死後四日経っていたラザロを生き返らせました。偶然ではなく、神の栄光が現されるため、あらかじめ備えられた人たちでした。案の定というべきか、ユダヤ人たちは眼前で行われたこの明白なしるしですら、一部を除いて信じ受け入れませんでした。こうして自分たちが、闇に属する者たちであることを明白にしました。
 ただニコデモのようなほんの一部にはイエスを認めるパリサイ人のユダヤ人が出て、彼らにささやかな分裂は生じました。しかしどんなに少数であっても、公然とイエス様に従うことができなかったとしても、イエス様にとっては大切な羊だったのです。

 光は闇を恐れません。かえって闇を明らかにします。イエス様はご自分の「私は良い牧者です。わたしは羊のために命を捨てる」と語られ、「捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(ヨハネ10:14-17)を実践されました。父がご自分に従うイエスキリストを愛されたように、キリストに従う私たちをも愛されます。決してご自分の羊を失われません。

私たちはその愛を反射して、新しい群れの名前の実質をラザロのように、光と愛を証しして参りましょう。

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