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2019年1月 6日 (日)

ひかり

ヨハネ 12章46節      【新改訳2017】

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。

 この聖句で「光」とは神のことを意味し、「闇」とは神の光が当たらない罪の世界を指します。創世記の始めのように、光がなければ在っても、色も形も全体も見えないので認識できません。存在は光があってこそのものです。人に神の光が当たるならば、己の真の姿がわかりますが、多くの人は罪がわからず、闇の中に留まっていることになります。光は罪を知らせ、悔い改めて光である父のもとに立ち返らせます。

 神を信じない人々は、光を知りません。原罪がわからず、人を裁き自己を正当化します。そして悪霊の世界に属していることが当然で、光の子どもを妬んだり、理解できない存在として拒み迫害します。このように闇の中を歩く人は、自分が最終的にはどこへ行くのかを知りません。でも本当は何となくわかっていて、はっきりとは知りたくないのかも知れませんが。

 主イエスはこのような滅び行く人、自分の敵さえも愛しておられました。ご自身もたびたび仰っておられれますが、彼らはイエス様を除くことが神への忠誠であり、奉仕だとすら思っていたのですから、最後の審判に本当のことを知ったらどれほど驚くことでしょうか。「(メシアである)しるしを見せろ」と迫るユダヤ人たちのに、どんなしるしを見せてもそ無駄であることまでイエス様はご存知でした。にもかかわらず、最後の最後に生まれつき見えなかった人を直し、死後四日経っていたラザロを生き返らせました。偶然ではなく、神の栄光が現されるため、あらかじめ備えられた人たちでした。案の定というべきか、ユダヤ人たちは眼前で行われたこの明白なしるしですら、一部を除いて信じ受け入れませんでした。こうして自分たちが、闇に属する者たちであることを明白にしました。
 ただニコデモのようなほんの一部にはイエスを認めるパリサイ人のユダヤ人が出て、彼らにささやかな分裂は生じました。しかしどんなに少数であっても、公然とイエス様に従うことができなかったとしても、イエス様にとっては大切な羊だったのです。

 光は闇を恐れません。かえって闇を明らかにします。イエス様はご自分の「私は良い牧者です。わたしは羊のために命を捨てる」と語られ、「捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(ヨハネ10:14-17)を実践されました。父がご自分に従うイエスキリストを愛されたように、キリストに従う私たちをも愛されます。決してご自分の羊を失われません。

私たちはその愛を反射して、新しい群れの名前の実質をラザロのように、光と愛を証しして参りましょう。

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