フォト
2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »

2019年2月

2019年2月24日 (日)

真の礼拝

ローマ 12章1節     【新改訳2017】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

本日の聖書箇所での「お勧めします」とは、<懇願する>という意味が強い言い方です。ですから聞く人々に、パウロがひざまずいて「どうか・・・」と強くお願していることになります。そうまでしてパウロが切に願っているのが、この1節を起点にした全部で24になる「クリスチャンへのお勧め」です。24_2     (右図参照)

 この24にもなる勧めを見、その「言わんとすることは何か?」と言えば、理想だが実際に行うのは大変難しい、そう思ってしまう所が多いことです。のです。例えば15節の「泣いている者たちとともに泣く」ことはできても、「喜んでいる者たちとともに喜ぶ」ことは、人間にはねたみうらやむ心があって、完全には難しいことです。ただしこれは人間的には、でしょう。

 モーセの律法が、人間の罪を明らかにするためにあったように、パウロのこのクリスチャンへの勧めも、肉なる人のままではできないことを明らかにしています。ですからパウロは冒頭にきちんと「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きたささげ物として献げなさい」とあらかじめ断ったかのように言っているのでしょう。

 神殿の時代、何らかの節目には必ず神殿で犠牲の動物を献げました。その時代は現在のように冷凍冷蔵も急速乾燥もありませんでしたから、神に献げる最高に鮮度の良い物は、その動物を生きたまま献げることでした。ですから、現在に適用するなら、神に喜ばれる献げものとは、今生きている私たち自身のことであり、実際の体そのものということになります。

 もちろん皆さんのなかには、「すでに私の心と霊をすでに献げています」という方もおられることでしょう。それは尊いことです。しかし血肉の体を持っている以上、霊肉はしばしば相反する働きをしますし、体を完全に従わせることは大変難しいと言わざるを得ません。私たちは血肉の体という弱さを持っているのです。しかし神に完全に献げられたものは聖別され、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死に」(ロマ14:7-8)、聖化が恵みとして与えられていくことが約束されており、パウロの「24のおすすめ」が実践されていくことでしょう。従って「パウロの24の勧め」とは、主に触れられ新生した、あるいは聖霊のバプテスマを受けたというレベルの方々のものであり、そうでない方々は、究極的には自分もそうなるのだと希望を持って祈り、求め続けられるべきなのです。

 皆さんは、そのように主のものとされることを祈っておられると思います。しかしそれには時があります。神が試練とともに、一人一人に受け入れられる真実の姿をあらわにされ、見せてくださる時です。自分の罪深い真の姿を知り、悔い改める時が来た時がその時です。その試練とは神の愛です。自分の力ではなく、神が私たちをつくり変えてくださるのですから。

2019年2月17日 (日)

罪の奴隷から義の奴隷

ローマ 6章13-14節     【新改訳2017】

13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私は祝福されています。感情も霊という心がいつも神によって守られ、平安です。神の愛が私を包んでいるからです。また、私は死ぬことも益であり、天の御国を待ち望んでいます。私は自分の罪とその深さを知らされたからです。いのちに代えてご自分の羊を守ってくださった神のものとなる、これほど幸せなことはないのです。
しかしこの神のものになるということは、神の所有物=奴隷になると言うことです。サタンは強制的に人を縛って虜にしますが、神は決してそうなさいません。徴兵制のサタンに対し、神は志願制だからです。古来しもべとは、奴隷とあまり差がありませんでした。主人に命を捧げてみ心に従うこと、「自分に死ぬ」と言うことは、このことを指しています。

どんなに長くて人生百年もある人は珍しく、私を含めて遅かれ早かれ数十年したらみなさん肉体の命は終わります。そして行くべき先は神の国か、それともゲヘナという地獄のどちらかしかなく、グレイゾーンというか、その中間はありません。どんなに若くても、明日の命が知れないのです。信じる人は今すぐ信じましょう。
さて、神のものとなるのは志願制だと申し上げましたが、志願したくてもなかなか自分の力でできるものではありません。決め手は自分の罪深さを知ったからです。希望を神の国に見出したからです。 自分を守り、価値があると思っている間はできませんでした。
 Photo
右の図での「悔い改め」とは、自分を捨て神に自分を捧げることで、右側の人々、神を自分のために使おうとしてはならないのです。
罪がわからないとそのような悔い改めはできません。ですから神に愛されている人には、試練が許されるのです。これは神の愛です。

自分の力でできないからです。その結果、罪がわかる人はなんと幸せな事でしょうか。神を知っていなければ絶望して自殺するしかありませんでした。しかし幸いなことに神とその愛を知っているならば、神に希望を見、神の愛に自分を捧げたくなって仕方がなくなります。これが志願です。自分の命以上に神を愛するからです。なぜなら神は光であり、神には真の自由があり愛、喜び、平安があるからです。神の奴隷となり、神のものとされるということは何という恵みでしょうか。

神を信じている方で、いまだ神のものとされていない方がいるならば、それは惜しい、あまりにももったいない。「at Hand」、すぐそこに恵みがあるのに、未だに罪の奴隷のままであるということです。そのことは自分のと自分の内側を支配するものがなんであるか、ということで明らかです。

悔い改め、ともに神のものとならせていただきましょう。

2019年2月10日 (日)

闇から光に

使徒 26章18節     【新改訳2017】

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。

闇とはサタン、またはサタンの支配下にある状態を指します。日が沈んでいく時、徐々に光を失って行きます。どっぷりと日が沈んだ世界は色や形を失い、何がどうだったのかさっぱり分からなくなります。闇は存在が認められない混沌の世界です。そこではどうなるか恐れと不安に包まれ、うごめきしかありません。罪を隠し、わからなくさせるのも闇です。神とは全く関わりの無い世界です。

これに対し、光の世界はどうでしょうか。日が昇って光が射すと世界は色を取り戻し、ハッキリと形が見えて、認識ができるようになります。光は植物を育て、植物はすべての動物たちのいのちを支えます。光はいのちそのものであるとも言えます。天地万物の被造物には秩序があり、それによって神がおられ、世界は神によって成ったものであることがわかるのです。ですから光とは神、または神の栄光そのものであることがわかります。

神を信じない人は未だ闇の中に居り、神を信じた人は光の中にいます。しかし神を信じた人であっても、闇と光の間を行ったり来たりしている人がいるのも確かです。その人たちは自分が果たして光の子なのかどうかすら、確信が持てなくなっているかも知れません。これら試みられている人たちは、神から見捨てられているのではなく、むしろ「神から祝福のチャレンジを受けている」と理解すべきだというのが、私の考えです。

クリスチャンは一旦罪を告白し、赦されたのですから、揺るぎない天国の相続権があります。しかし世で光の子として証しするには、愛、喜び、平安の実を結んでいる必要があります。神はその恵みを私たちに等しく与えようとしてくださっているのであって、それはまず自分自身を全部神に捧げ、神のものとされる必要があります。どっちつかずは本人にも苦しいわけです。

自分を捨てる、つまりルカ 9章23節にあるように、己の内にある肉なるものを明け渡し、それを負ってキリストに従って来なさいという明確なメッセージがあります。握っている肉なるものが、神と一つになる障りとなっている、それに気づかせ、確かに神のものとされるようにと、主は語っておられます。富める若人には財産を、父の葬ることは死人たちに、と主はこの世よりも、神の国を第一とする者に変えていただきましょう。

私たちはそれを聖化と言ったり、新しく生まれた者と言っているのです。心から悔い改め、神のものとして自分を捧げましょう。神の光によって私たちは変えられていくのです。

2019年2月 3日 (日)

私と和解する

エペソ 2章16節     【新改訳2017】

二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
 これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う

 もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。

 そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
 そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。

 神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »