私と和解する
✝エペソ 2章16節 【新改訳2017】
二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う
もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。
そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。
神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。
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