闇から光に
† 使徒 26章18節 【新改訳2017】
それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。
闇とはサタン、またはサタンの支配下にある状態を指します。日が沈んでいく時、徐々に光を失って行きます。どっぷりと日が沈んだ世界は色や形を失い、何がどうだったのかさっぱり分からなくなります。闇は存在が認められない混沌の世界です。そこではどうなるか恐れと不安に包まれ、うごめきしかありません。罪を隠し、わからなくさせるのも闇です。神とは全く関わりの無い世界です。
これに対し、光の世界はどうでしょうか。日が昇って光が射すと世界は色を取り戻し、ハッキリと形が見えて、認識ができるようになります。光は植物を育て、植物はすべての動物たちのいのちを支えます。光はいのちそのものであるとも言えます。天地万物の被造物には秩序があり、それによって神がおられ、世界は神によって成ったものであることがわかるのです。ですから光とは神、または神の栄光そのものであることがわかります。
神を信じない人は未だ闇の中に居り、神を信じた人は光の中にいます。しかし神を信じた人であっても、闇と光の間を行ったり来たりしている人がいるのも確かです。その人たちは自分が果たして光の子なのかどうかすら、確信が持てなくなっているかも知れません。これら試みられている人たちは、神から見捨てられているのではなく、むしろ「神から祝福のチャレンジを受けている」と理解すべきだというのが、私の考えです。
クリスチャンは一旦罪を告白し、赦されたのですから、揺るぎない天国の相続権があります。しかし世で光の子として証しするには、愛、喜び、平安の実を結んでいる必要があります。神はその恵みを私たちに等しく与えようとしてくださっているのであって、それはまず自分自身を全部神に捧げ、神のものとされる必要があります。どっちつかずは本人にも苦しいわけです。
自分を捨てる、つまりルカ 9章23節にあるように、己の内にある肉なるものを明け渡し、それを負ってキリストに従って来なさいという明確なメッセージがあります。握っている肉なるものが、神と一つになる障りとなっている、それに気づかせ、確かに神のものとされるようにと、主は語っておられます。富める若人には財産を、父の葬ることは死人たちに、と主はこの世よりも、神の国を第一とする者に変えていただきましょう。
私たちはそれを聖化と言ったり、新しく生まれた者と言っているのです。心から悔い改め、神のものとして自分を捧げましょう。神の光によって私たちは変えられていくのです。
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