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2019年3月

2019年3月31日 (日)

私は死んでキリストが生きる

ガラテヤ 2章 19-20節     新改訳2017】
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

まだはっきりと信仰を持っていない方から、質問を受けました。
求めなさい、そうすれば与えられます (マタイ7:7)と言われ祈り求めようとしたら、聞き従いなさい (1サム15:22)とも言われる。それなら自分は求めるべきなのか、従うべきなのか、いったいどちらが正しいのかわからない?と。
確かにこれは一見矛盾しているように感じられるでしょう。しかし全く矛盾していないのです。「求めなさい」に重要な言葉が省かれているからです。それは「みこころを求め、それを求めるなら」と言うことです。それを裏付けるみ言葉が以下です。

まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます(マタ6:33)とあります。
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます(ヨハネ9:31)

同じように、本日の聖書箇所も一見すると矛盾しているように見えます。これは「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)もそうですが、まず「私が死ぬ」ことが理解できない、あるいは理解できても到底不可能と思われますので、余計にそうどうしていいのか、と感じるようです。しかしこれは罪の問題です。自分の罪が深くわかれば、私たちは自分の罪深さに絶望するしかありません。とても天国に行けるような存在ではないと。その時、私たちに十字架の恵みが染み通って来ます。こんな罪人のために、尊い神ご自身が身代わりになってあがなってくださったことが。自分への望みを失っても、人間はそれでもなかなか自分に死ねる者ではりませんが、神に心から求め続けていくならば、それは御心ですから、神が試練や困難を通して導いて下さいます。人にはできないが、神に不可能はないのです。

その時、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな身を結びます(ヨハネ12:24)の真実さを知ることになります。

2019年3月24日 (日)

新しい天と新しい地

黙示録 21章1節      新改訳2017
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 ベストセラー本「天路歴程」のように、何とかして私たちは天国に行くかということに腐心していたと思います。考えてみますと、天国がどんなところかもよく知らずに、ただ「行きたい」「行きたい」では少しおかしくないか、と気づきました。

では天国ってどんな所でしょうか。それは人間の想像を超えた素晴らしい所です。黙示録21章には次のように描かれています。千年王国が終わって後に、最後の審判があることを私たちは知っています。その後、今のエルサレムの上に天から着飾った花嫁のように天のエルサレムが降りてきます。一辺が2200kmある広大な都市、十二の門があるたとえようもなく美しい都です。この地上はもはや太陽も月もなく、夜がありません。なぜなら都には神の栄光が満ち、子羊キリストが明かりだからです Photo_1thumb2 。都には一切の陰、闇も無いと私は想像しています。

なぜなら「神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙21:4)とあるからです。これはどういうことかと申しますと、サタンの陰、一切の罪が無い世界であり、それにふさわしい暗い所はないのです。24時間、永遠に明るく、住まいにも暗い所はありません。あるとしたらそこは地獄という火の池でしょう。

なぜ無いのかというと、まず第一に私たちが変えられた御霊の体は朽ちないということです。ですから朽ちる体の時のような眠ること、入浴すること、着替えの個室も要らないことになり、従って目隠しするプライベート空間が必要ないことです。次に黙示録から散見される世界、例えば御座の周りが水晶に似たガラスの海のようであったとあります。私たちの知らない素材が天国にはあり、各人が自分の務めを終えて自由に過ごせる家があるとしても、これまでのような照明器具の要らない、光を通す透き通った素材でできており、隠す必要の無い空間であると私は想像するのです。

天国は素晴らしい所です。今のような血肉の体がある時とは全く異なって、血肉の体と共に霊、たましいまでも本来のものに神は造り替えてくださっているのです。わたしは天国のことを思う度に、胸が焦がれるような熱い希望を持ってしまいます。天国は現実の存在なのです。みなさん、命ある限り、天国を目指してひたすら歩きましょう。

2019年3月17日 (日)

愛がなければ

✝Ⅰコリント  16章14節     【新改訳2017】
いっさいのことを、愛を持って行いなさい
 1コリントの12章から16章の本日の聖書箇所を通してみると、パウロがこの手紙を通して何を一番言いたかったのかがよくわかります。
12章31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言いながら、それに続く「はるかにまさる道を示しましょう」とは<愛>のことでした。13章3節でも「愛がなければ何の役にも立ちません」と言っています。同13節では真・望・愛の中で「一番すぐれているのは愛」だとしています。次の14章の1節では先ず、「愛を追い求めよ!」とばかりの強い命令形で述べていますが、御霊の賜物、預言を特に熱心に、と奨めているだけです。最後にこの16章では振り返って、念押しのように「一切のことを、愛を持っておこないなさい」と締めくくって述べています。
 このような賜物と愛の関係理解は、私たちの群れの名称が最近「The Light of Eternal Agape」に変わったことと結びついていると思われます。
 さて「一切のことを愛をもって行う」というみ言葉を自分に適用する時、私には深い悲しみが生じます。かつて人と自分を見比べていた時代ならともかく、今自分自身を振り返るならば、愛を持って接したつもりの多くが、「自分が良く思われたい」とか「売名行為」の下心が無かったとは言い切れないのです。たとえ自分を捨て、相手のことを思っての対応をしたはずの事ですら、それは相手の人の反応を読み、自分にとってもより利となり益となるための抑制に過ぎなかった…そんな見方もできる…と気づかされるのです。
 私は良いと思うこと、愛を純粋に行うことができない自己中心な者であり、あわれな偽善者なのです。しかしこの時、ローマ7章7節のみ言葉が開かれました。律法が無かったらな私たちは自分の罪深さがわからなかったように、新約の唯一の律法である「愛しなさい」は、愛せないこと、愛する力が無いことを明らかにしました。そんな自分にほとほと愛想が尽き、自分を神の愛と十字架に献げ、ただみ心だけを行ないたい、そんな決心をさせる力になりました。愛は神のもので、私にはありません。しかし神の愛を反射させることはできます。自分の力でなかなか自分を神に献げきれないのですが、神が助けてくださるのです。その意味で自分の罪深さがわかるということは、神の愛がわかり、自分を献げる土台の力となる恵みだと合点するのです。ハレルヤ、神は愛であり、真実な方です。

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2019年3月10日 (日)

真実な神

Ⅰコリント 10章13節     【新改訳2017】

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

あなたがたが経験した試練は、みな人の知らない試練ではありません」と聞いて、反発される方が多いでしょう。自分の受けた試練は過酷で、特別だと思いたいのが人の常でしょう。しかしこの言葉から、神は個々人に与えている試練をすべてご存知であり、神の手の中で許容されていることがわかります。全知全能の神はすべてをご存じなのです。

「神は真実な方です」とは本日のテーマです。私が試練のどん底にいた時、神がひょっとして私を「弄んでいる」「いたぶっている」のではないかと疑ったことがあります。後に大変後悔し悔い改めましたが、神には決してそのようなことができません。私は血迷って思ったのです。その時、私以上に神も苦しんでくださっていたのです。これは後になって神が私に触れてくださった時に、一気に氷解してわかったことです。

「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」全知全能の神の手の平の中での試練です。必ず解決があると安心し、過度に患わないようにしましょう。耐えられる保証を神がしてくださっているのですから。その上で、試練のその先に私たちをこの道を通してでないと得られない祝福があるのです。神に期待しましょう。ただ感謝です。

「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます」とは、今直面している困難に何か抜け道やバイパスを見つけると考えるより、困難に耐える力を神が与えてくださると解する見方があるようです。が、私は両方ともあるのではないかと思っています。いずれにしても脱出の鍵は神の言葉と感謝の信仰です。

パウロはビリピでは神が起こされた地震によって助け出されました。しかしいつも必ず助け出されたわけではなく、鞭打たれたり、石打ちにあったりと何度も死にそうな目に遭いました。それでもパウロは、神への忠実と信仰を失うことはありませんでした。ですから、今くじけそうな重荷や試練にあえいでいる方、失敗だらけで、まるで自分が不良品のように思えて「自己否定」したり、希望を失いかけている方、その方に申し上げます。それは神を悲しませることです。陶器師である神は、あなたを失敗作として世に送り出したのでしょうか?そんなことはあり得ません。それは世的な見方で自分を見ているからです。神の見方ではありません。神は真実な方で、神にあっては失敗作は存在しません。

 だいたいこの罪深い自分のために、世界の創造主である神ご自身が、あなたの罪のために十字架に架かって下さった。この愛に勝る価値、奇跡は計り知れない恵みです。帳消しにされ赦された自分の罪の深さが、まだ十分には分かっておられないのかも知れません。

2019年3月 3日 (日)

神のみ心に従って願うなら

Ⅰヨハネ 5章14節      【新改訳2017】

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

   今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っているPhoto
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。

  ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。

 初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
 意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
 癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。

 絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。

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