私は死んでキリストが生きる
†ガラテヤ 2章 19-20節 新改訳2017】
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
まだはっきりと信仰を持っていない方から、質問を受けました。
求めなさい、そうすれば与えられます (マタイ7:7)と言われ祈り求めようとしたら、聞き従いなさい (1サム15:22)とも言われる。それなら自分は求めるべきなのか、従うべきなのか、いったいどちらが正しいのかわからない?と。
確かにこれは一見矛盾しているように感じられるでしょう。しかし全く矛盾していないのです。「求めなさい」に重要な言葉が省かれているからです。それは「みこころを求め、それを求めるなら」と言うことです。それを裏付けるみ言葉が以下です。
◯まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます(マタ6:33)とあります。
◯私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます(ヨハネ9:31)
同じように、本日の聖書箇所も一見すると矛盾しているように見えます。これは「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)もそうですが、まず「私が死ぬ」ことが理解できない、あるいは理解できても到底不可能と思われますので、余計にそうどうしていいのか、と感じるようです。しかしこれは罪の問題です。自分の罪が深くわかれば、私たちは自分の罪深さに絶望するしかありません。とても天国に行けるような存在ではないと。その時、私たちに十字架の恵みが染み通って来ます。こんな罪人のために、尊い神ご自身が身代わりになってあがなってくださったことが。自分への望みを失っても、人間はそれでもなかなか自分に死ねる者ではりませんが、神に心から求め続けていくならば、それは御心ですから、神が試練や困難を通して導いて下さいます。人にはできないが、神に不可能はないのです。
その時、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな身を結びます(ヨハネ12:24)の真実さを知ることになります。