神のみ心に従って願うなら
✝ Ⅰヨハネ 5章14節 【新改訳2017】
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っている
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。
ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。
初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。
絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。
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