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2019年4月

2019年4月28日 (日)

聖霊の宮

1コリント 6章20節    新改訳2017
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

聖書では「狭き門より入れ」とイエス様が言われているように、滅びる人が多いのです。ではなぜ、神は人を滅ぼされるようなことをされるのでしょうか。誤解のないように、神は誰一人滅ぶことを望んでおられないことです。エゼキエル18:32、1テモ2:4、2ペテロ3:9等。滅ぶ最大の理由は、人間だけが神の似姿として造られ、神の霊が与えられる霊的な存在として造られました。人間はロボットとしてはなく、自由と意思が与えられ、神に背くこと、従わないことの選択の結果をも引き受けなければならないのです。神は人間の自由な意思から神に近づくよう、望んでおられるのです。ロボットのような存在がいかに神を愛し、賛美したとしても、神にとって何の喜びがあるでしょうか。
ただイブとアダムの背信の結果、すべての人が罪を犯す存在になりました。たとえそうでも人間には良心があり、罪を犯すか犯さないかは、人の決断によります。神は人間を愛し、すべての罪が赦される十字架の道を開いて下さいました。私たちはこの狭い道を通るべきです。

次にクリスチャンにも、それが一部だろうと、滅びがあるかということです。結論から言うと、本当に信じていれば滅びはりません。滅びるように見えるクリスチャンは、元から信じてはいなかったのであって、毒麦だったのです。ただ人は神ではないので、一切裁いてはいけません。
従来、このことについて予定説のように、滅びないとするカルビニズムと、アルミニズムのように、滅びるとする考え方の両方がありました。そのような教理的な見方をするのではなく、クリスチャンにとって信仰が不確かな段階から聖化に至る、霊的な引き上げの段階だと理解した方が妥当ではないかと思います。

私たち神を信じる者は、すでに代価を払って買い取られたものです。ですから自分の所有権はなく、すでに神のものです(1コリ6:20、7:23)。それで私たちクリスチャンには聖霊が内住され、意識するかしないかに関わらず、聖霊の宮があるのです(1コリ6:19)。宮ならば、それを自分の一番大切なところにしなければなりませんが、残念ながら、聖霊さまに気づかず、ないがしろにし、それまでの自分中心の生活を続けてしまうので、結果としてそれまでと変わらない自分に信仰の確信が無いのです。これは当然のことなのに、それで悩んでいる人が多いのです。
罪がわかり、十字架が自分の為だと分かったなら、心から悔い改め、神の恵みに感謝し今一度、自分の心の王座に座っていただきましょう。神はあなたを求めて折られます。時が来て、自分のうちに起こる大きな変化に、あなたは驚くことになるでしょう。すべてはその時に、本当のあなたが始まります。

2019年4月21日 (日)

神に喜ばれたい

Ⅰテサロニケ 2章4節 4章7節  【新改訳2017】

 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

聖書1テサ2:4に「私たちの心をお調べになる神」と言う類のことばがいくつか出てきます。雀の一羽でさえも神のゆるしなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数まですべて数えられています。ナタナエルという十二弟子の召命においても、主はナタナエルが居た場所まで言い表されました。

このことはつまり、私たちのすべて・・・・それがどんな小さなことであろうとも、神が知らないということはないと言うことです。これを聞いて、それでも神を恐れない人が果たしているでしょうか。かといって全知全能である神の前で、自分を守ろうと弁解することほど愚かなことはありません。しかしポイントになるのは神はこのような罪深い愚かな私をも十字架で愛してくださり、ご自分の命を持って救って下さったという信仰です。ですから神の愛に応え、神さまのふところに飛び込むことしか他に道はありません。

以上のことを抑えた上で、この「心をお調べになる」ことばのすぐに「神に喜んでいただこうとして」ということばが続きます。これはパウロがよく言うことばです。愛は愛でしか応えることはできません。神の愛に答え、神を愛する者にとって、神が私をすべて知って下さるということは喜びですし、何とかして神を愛そうという心が湧いてきます。

愛とは最大限の関心を相手に持つことです。すべてを知りたいのです。事実婚と言って、籍を入れず、いつ別れてもいいように、家にあるものはすべて買う時から所有者が決まっている形があるのだそうです。これは極端として、夫婦でも互いのスマホを見てはダメとか言うカップルがあるそうですね。私はこれを聞くと、そこには秘密という罪があるように感じてしまいます。神さまはすべてをご存知です。愛すればこそ相手のすべてを知りたいのです。私たちも愛する神さまを知りたいのです。何とかして神さまを喜ばせたいのです。

 この群れではよく「神のみこころは?」をよく祈っています。みこころを聞くことは確かに大切ですが、1テサ4:7では「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と大前提がはっきり語られています。これは自分の努力や行いで聖なる者になることではなく、パウロのように、「神に喜んでもらいたい」と常に神を愛する行いから聖とされていく、私はそのように示されています。私たちが神に喜んでもらおうと心から行うなら、その稚拙は関係なくそのすべてを神は喜んで下さり、天国での最上の宝として取っておいて下さることを信じます。目を世にではなく、天に向け、何とかして天のお父様に喜んでいただく生活をいたしましょう。

2019年4月14日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節  【新改訳2017】
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
      
聖書のかなりの部分を受け入れながら、キリストが三位一体の神であることを信じられない人たちがいます。しかしこのコロサイ1章15では、イエスは神のかたちであって、目に見える神であると言っています。またイエスの裁判で、肯定すれば「冒神罪」で死刑を免れないシーンで、「わたしはそれ(神の子)です」(ルカ22:70)とイエス様は肯定されました。
3年半、朝な夕な身近に接して来た筆頭弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」(マタ16:16)と告白しました。当時のユダヤ社会を考えるなら、この告白は相当な覚悟を伴ったものです。イエス様の復活という超奇跡は「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(1コリ15:6)ました。これも驚くべきことです。

神が肉体を伴って世に現れる、驚天動地のこの目的はいったい何でしょうか。それは神は高き御位に座して良しとされず、地に降りて神のすがたを現し、人々に神を信じさせるためでした。それは十字架上で人間のすべての罪を贖って、信じる者には永遠のいのちが与えられること、復活によってその確かさを明らかにするためでした。
それまでイスラエルを通し、律法が与えられていましたが、その律法によっては人は救われないことがハッキリした、まさにその時にイエス・キリストが世に来られたのです。この神の受肉と身代わりの贖罪を一言で言えば、神の「愛(Agape)」です。イエス・キリストは神の子であり、同時に神そのものでした。このイエスのうちに、神のすがた、神の愛の本質が溢れているのです。

では少しだけ具体的に聖書を見ていきましょう。まずイエス様ご自身がご自分のことを「七つのI am」(資料1)として語っておられます。イエス様の愛を端的に示すものとして「十字架上の七つの言葉」(資料2)があります。
私自身で言えば、マタイ伝5~7章で語られている公生涯最初のメッセージを読んだ時の衝撃を思い出します。「心の貧しい者は幸いです」、「情欲を抱いて女を見るものはだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」。平易なことばであっても、まさに一刀両断のように私を捉えました。これは人が語ろうとしても語れるものではない、語った人、この人は人間の姿をしていても神だ!と思ったのです。 

2019年4月 7日 (日)

隔ての壁

エペソ 2章14節   【新改訳2017】
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し

 クリスチャンの中にはパウロのガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただキリストを信じることによって義と認められる という信仰義認の原則をもって、ヤコブ書2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない を律法主義と断罪するケースがあります。ルターもヤコブ書を「藁の書」と呼んでいた時期がありました。しかしこれをもって、ヤコブが律法主義だと断じるのは少々行き過ぎです。ヤコブが律法主義的な傾向を持っていたことは否定できませんが、この書では律法主義者としてではなく、真に信仰による義を受けているなら、実としての行いが伴うはずだと信仰生活について言っているのです。パウロが信仰の根本を強調したとすれば、ヤコブはその後、信仰の結果を強調して言っているわけです。

 さて本日の聖書箇所で「隔ての壁」とあります。これが二つものを隔離し、どちらかに敵意があったようです。これは実際にエルサレム神殿に存在したもので、当時の第二神殿の丘にはまず異邦人の庭があり、そこで犠牲の動物や両替商が商いをしていました。丘の中央部に神殿があり、割礼を受けたユダヤ人だけが入れるよう建物の周囲を壁で仕切っていました。それが隔ての壁で、壁には「異邦人が壁の中に入ると殺される」と書いてあったようです。
 これは言うまでもなく教会内にある、メシアニックのユダヤ人と異邦人クリスチャンの間にある壁のことを指し、十字架がそのわだかまりのすべてを解消させて教会の一致が成るように説いたものです。そのカギは御霊による一致です。御霊は複数ありませんし、御霊に従って歩むなら、分裂分派などは起こりようがないのです。主は一つ、御霊も一つなのですから。私たち現在の教会内でもアーメンでしょうか。

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