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2019年4月 7日 (日)

隔ての壁

エペソ 2章14節   【新改訳2017】
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し

 クリスチャンの中にはパウロのガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただキリストを信じることによって義と認められる という信仰義認の原則をもって、ヤコブ書2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない を律法主義と断罪するケースがあります。ルターもヤコブ書を「藁の書」と呼んでいた時期がありました。しかしこれをもって、ヤコブが律法主義だと断じるのは少々行き過ぎです。ヤコブが律法主義的な傾向を持っていたことは否定できませんが、この書では律法主義者としてではなく、真に信仰による義を受けているなら、実としての行いが伴うはずだと信仰生活について言っているのです。パウロが信仰の根本を強調したとすれば、ヤコブはその後、信仰の結果を強調して言っているわけです。

 さて本日の聖書箇所で「隔ての壁」とあります。これが二つものを隔離し、どちらかに敵意があったようです。これは実際にエルサレム神殿に存在したもので、当時の第二神殿の丘にはまず異邦人の庭があり、そこで犠牲の動物や両替商が商いをしていました。丘の中央部に神殿があり、割礼を受けたユダヤ人だけが入れるよう建物の周囲を壁で仕切っていました。それが隔ての壁で、壁には「異邦人が壁の中に入ると殺される」と書いてあったようです。
 これは言うまでもなく教会内にある、メシアニックのユダヤ人と異邦人クリスチャンの間にある壁のことを指し、十字架がそのわだかまりのすべてを解消させて教会の一致が成るように説いたものです。そのカギは御霊による一致です。御霊は複数ありませんし、御霊に従って歩むなら、分裂分派などは起こりようがないのです。主は一つ、御霊も一つなのですから。私たち現在の教会内でもアーメンでしょうか。

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