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2019年5月

2019年5月26日 (日)

信仰の真価が試されるわけ

エペソ 6章12節   

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。   【新改訳2017】

 私たちの体は、神による万物の創造の最後に、ご自分の似姿に人を造り、すべての被造物の上に立つものとして置いてくださったものです。人は被造物という「物質」であり、それに「命」を与えられたものですが、さらに唯一「霊」をも併せ持つ究極のハイブリッドの存在です。霊的な被造物では他に天使がいます。しかし天使は物質と命を持たず、従って人間に及ばず、第1に神、次に人間に仕える存在なのです。
 そんな人間が本来の神のみ心通りに救われるために、神は独り子イエス様を受肉させ、十字架と復活の救いの道を開いてくださいました。愛の極まりを人間は受けています。

 人が神の子の十字架と復活を信じるとはどういうことでしょうか。このままでは必ずゲヘナに行くしかない自分の罪を認めるということ。つまり第1の死である肉体の滅びの後、残された永遠の霊の行く先がわかって、十字架の愛と救いに自分を信じ委ねる・・クリスチャンになることです。これは霊魂の不滅という真理に気づいていることがすべて前提のことです。そうでなく、教会の中には、まるで何かの保険のように、あるいは御利益的な自己目的のために表面的に信じた人たちもいます。その人たちもそこから脱皮して、真の信仰を持つことも多いのですが、その真価は第1の死で黒か白か、実質が現れることになります。霊魂の不滅と深刻な自分の罪の覚醒、これが信仰の土台です。

 繰り返しますが人に必ず訪れる第1の死、その時こそ信仰の真価が試される時となります。死を恐れる人は、自分の第2の死を予感するからではないでしょうか。信仰があれば真逆です。「これで自分はこの肉の縄目を脱ぐことができて、天の父の御許にいける」という解放の喜び、天への凱旋で喜びが湧くのです。ですからクリスチャンの葬儀は、一時的な別れで悲しむことはあっても、本来、天国とやがてそこで再会する喜びがあります。「聖者の行進」は埋葬を終えて帰る時の曲ですが、悲しい曲だとは誰も思わないでしょう?
 クリスチャンの死、これは信仰の真価が試される時です。どんなに篤信の信徒、教会での奉仕者、長老であろうと、その臨終に当たって死を恐れるか、または喜んで行くかは、命をかけたこれほど明確な証しはありません。私たちの戦いは血肉に対するものです。

 ここで一つお勧めをします。初代では当たり前であった聖霊のバプテスマを、クリスチャン全員が受けてほしいと私は願っています。もちろんこれはみ心しだいであり、そのためのHow-Toなどあるわけがありません。しかしこころから願い、求め続けてください。神はすべてこころをご存じです。信仰の真価に対し、明確なアドバンテージが聖霊のバプテスマにはあります。このことを次回さらにお証しできたらと思います。

2019年5月19日 (日)

聞き従いのわけは

詩篇 40篇8節   新改訳2017

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
 
 クリスチャンにとって、神に聞き従うことは最も大切です。ですが聞き従いにも、恐れから従う人と、神を愛して従う人とがいます。恐れて従うのであれば、その場その場のものですが、愛して従う人は神に近づこうとし、従うことそのものが喜びなのです。

 P牧師が良く述懐しておられますが、教会の誰よりも熱心に教会に出席し、奉仕しても、そんな自分よりもなぜか神に愛され、祝福される人が居ると。聖書ではダビデが該当するタイプではないでしょうか。ダビデは歴史上、イスラエルを最大版図にした英雄であり、イスラエルの国旗にもなっている人物ですが、逆に彼ほど問題を起こした人物は少ないのです。姦淫し殺人までしたバテ・シェバの一件、息子アブサロムに反逆され、妻たちを残して都落ちを余儀なくされたこともあります。

 しかし彼には神を愛する真摯な心がありました。神をなんとかして喜ばせようとしたのです。ですからどんな失敗があっても、神は彼を忘れず、祝福し続けたのです。どうしてでしょうか。神もまたダビデを愛されたからです。愛には、愛を、の原則があるからです。

 私は小学校の担任を長く経験しましたが、児童たちに二つの傾向が見られました。それは恐れて従う子どもと、恐れずに進んで教師に近寄って来る子どもです。恐れて従う子どもたちは確かに従いはしますが、それは教室という私の管理下にある時だけのことでした。しかしもう一方の恐れない子どもは、休憩時間になると教師のところに来て、あれこれ言いたいことを言います。「先生、あれは難しかった」とかの評価をずけずけ言ったりもします。時に山積みになっている教師の机上のノートを整理を手伝ってくれたりもします。この子どもたちは先生を恐れてはいません。教師に興味があり、親しみを感じ、近づいて会話を楽しむのです。すると互いの心がわかり、育まれるものが生じます。信頼と愛の中で育まれる最も理想的な関係、聞き従いではないでしょうか。

 このように、同じ聞き従いでも、神との距離が大きなポイントになります。神は同じように私たちを愛したいと思っていらっしゃいますが、前述のどちらがより多くの恵みを受け取っているか、お分かりでしょう。神を愛したダビデは、契約の箱を都に迎える時には、王の威厳も何もなく、妻に軽蔑されようと、ただ子どものように喜んで裸で踊りました。全知の神は私たちの稚拙より、私たちの心を実に喜んでくださる神なのです。

 私たちも、恐れからではなく、私たちを多く愛してくださった神を愛し返しましょう。

2019年5月12日 (日)

教会~召された人々

Ⅰコリント 1章2節     新改訳2017

キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 昨日の聖書箇所、へブル2章12節で「会衆」とありますが、別訳で「教会」でした。英語ではアッセンブリーと言い、集まり、集会のことです。一般的なChurchはギリシャ語の エクレシアecclesiaが語源ですが、エクとは~からという意味、レシアとは=呼ぶと言う意味で、アッセンブリーと同様、「(神)から呼び集められた人たち」という意味です。旧約聖書の時代から、教会とは「人々の集まり」という意味だったのです。

 ところが私がキリスト教に接し始めた十代の頃から、私にとって教会とは建物である会堂のことでした。屋根を消失した荘厳なノートル・ダム大聖堂から、森の中の小屋のような教会に至るまで、十字架が掲げてある所、そこが教会だと思っていました。日本では神社仏閣の境内・建物等が信仰の対象になるので、これは日本人の自然な感覚でしょう。しかしこれは拭い取らなければならない認識です。それだけでなく、この教会堂があることによって、実は大きな問題があることをクリスチャン自身ですら気づいていないのです。

 日本では宗教法人法という法律があります。会堂など税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と、財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要です(3章18,25条)。その意味もあって、教会では洗礼証明書とか転会状とかを必要としているのです。特に問題なのが3名以上の教会の根幹とも言える役員会です。私は立派な会堂を持つ大きな教会で役員を二十年しましたが、役員会はまさにこの世そのものであって、信仰とか霊性についての話は皆無でした。仕事の押し付け合い、様々な対立、これが教会だろうかと目を疑う連続でした。

 先週学んだように、教会はイエス様が「(ペテロの告白した)岩の上に」建てると言われたものです。その後、約束通り、十字架の死と復活によって死の力を滅ぼされ、教会はペンテコステの聖霊の注ぎによってスタートしました。聖書的には教会の頭はキリストであり、教会はそのみからだです。教会には設立の当初からキリストの霊が満ちているものなのです。その教会が、聖霊と告白する信仰を失っている例がなんと多いことでしょうか。
 ですから会堂はある意味、わなです。宗教法人法から、あるいは見える教会という物質化から守られています。会堂を持たない私たちは聖書の使徒時代の教会と同じです。本来の信仰オンリーの存在として、純粋で真実な教会です。私たちは恵まれているのです。
 
 何年か前の殉教聖会で「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」との呼びかけに対し、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、前に進み出ました。死を恐れない私たちの信仰こそ、真の教会であるしるしが現されているのです。

2019年5月 5日 (日)

この岩の上に

マタイ 16章15-18節    【新改訳2017】

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

<1>教会は、ペテロが代表して「あなたこそ神の子キリストです」の自発的な信仰告白が土台です。
<2>教会が具体的にスタートしたのはペンテコステでの聖霊の注ぎと働きからですが、教会の頭(かしら)はキリストです。このキリストが言われて居ように、三位一体の助け主、聖霊の働きによって最初は三千人の教会からスタートしました。聖霊の臨在とその働きがなければ、教会はそのいのちを失ったも同然になります。
<3>クリスチャンの使命とはキリストの十字架と復活の全世界での証人です。教会は証人としての働きの土台ですが、キリストの御体そのものであり、世界宣教への母体です。ですからクリスチャンは自分の体である教会を離れては存在出来ず、その肢体の一つとなって恵みを受けて生きることができるのです。
教会には福音宣教を広める以外に、教え育てる、聖礼典を執行するなどがあります。
私たちクリスチャンは御体の一部としての働きを全うしていきましょう。

私はバプテスマを受けた二十歳の時から、教会を中心に生活してきました。日曜日には一家そろって教会へ、そんな私でしたが、教会の恵みを心から思い知らされたのは、皮肉にも自分の教会を失った時でした。
それは前の妻が拒食症を発症したためです。普通の福音派の教会でしたので、医師からは絶望的な宣告をされました。癒やしだけが最後の希望でした。しかし教会には癒やしがありませんでした。初期の時代の溢れるほど載っている癒やしは、聖書が完成した今、もう終わったと言うのです。しかしこれは聖書のどこにも記述がないのです。神の癒やしにしかすがろうとした者にとって、これはいきなり家を追い出され、路頭に迷ったようなものでした。

こうして癒やしと教会を探す十年にわたる放浪が始まりました。本当に辛かったですね。信仰もどんどんレベルダウンしていきました。家族がバラバラになり、生きる目標も失ってもう終わりだという時、神は私の自分の真の姿を教え、悔い改めさせ、ご自分をハッキリとわたしの前に現されました。その日一日中私は神のリアルな存在に圧倒されつつ、「主よ、癒やしを否定し、死んだような教会では無く、どうか私のいける生きたからだ、私の教会を与えてください」と祈りました。

不思議なことにその夜、主はインターネットで、それまで全く知らなかったTELA (旧主の十字架クリスチャンセンター)を教えてくださり、なんと翌日には聖会までセットされている素晴らしいタイミングで導いてくださいました。翌日、私は不安と期待で聖会の会場に着きました。すでに始まっていたらしい会場のそのドアの隙間から漏れる光、わたしはそれだけで自分の教会が「ここだ」という、ついに見つけた喜びに包まれたことを忘れることができません。教会がなかった苦しみを通し、真実の信仰がある教会こそ、本当の教会であることを、皆さんと分かち合って喜びたいと思います。

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