信仰の真価が試されるわけ
✝エペソ 6章12節
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 【新改訳2017】
私たちの体は、神による万物の創造の最後に、ご自分の似姿に人を造り、すべての被造物の上に立つものとして置いてくださったものです。人は被造物という「物質」であり、それに「命」を与えられたものですが、さらに唯一「霊」をも併せ持つ究極のハイブリッドの存在です。霊的な被造物では他に天使がいます。しかし天使は物質と命を持たず、従って人間に及ばず、第1に神、次に人間に仕える存在なのです。
そんな人間が本来の神のみ心通りに救われるために、神は独り子イエス様を受肉させ、十字架と復活の救いの道を開いてくださいました。愛の極まりを人間は受けています。
人が神の子の十字架と復活を信じるとはどういうことでしょうか。このままでは必ずゲヘナに行くしかない自分の罪を認めるということ。つまり第1の死である肉体の滅びの後、残された永遠の霊の行く先がわかって、十字架の愛と救いに自分を信じ委ねる・・クリスチャンになることです。これは霊魂の不滅という真理に気づいていることがすべて前提のことです。そうでなく、教会の中には、まるで何かの保険のように、あるいは御利益的な自己目的のために表面的に信じた人たちもいます。その人たちもそこから脱皮して、真の信仰を持つことも多いのですが、その真価は第1の死で黒か白か、実質が現れることになります。霊魂の不滅と深刻な自分の罪の覚醒、これが信仰の土台です。
繰り返しますが人に必ず訪れる第1の死、その時こそ信仰の真価が試される時となります。死を恐れる人は、自分の第2の死を予感するからではないでしょうか。信仰があれば真逆です。「これで自分はこの肉の縄目を脱ぐことができて、天の父の御許にいける」という解放の喜び、天への凱旋で喜びが湧くのです。ですからクリスチャンの葬儀は、一時的な別れで悲しむことはあっても、本来、天国とやがてそこで再会する喜びがあります。「聖者の行進」は埋葬を終えて帰る時の曲ですが、悲しい曲だとは誰も思わないでしょう?
クリスチャンの死、これは信仰の真価が試される時です。どんなに篤信の信徒、教会での奉仕者、長老であろうと、その臨終に当たって死を恐れるか、または喜んで行くかは、命をかけたこれほど明確な証しはありません。私たちの戦いは血肉に対するものです。
ここで一つお勧めをします。初代では当たり前であった聖霊のバプテスマを、クリスチャン全員が受けてほしいと私は願っています。もちろんこれはみ心しだいであり、そのためのHow-Toなどあるわけがありません。しかしこころから願い、求め続けてください。神はすべてこころをご存じです。信仰の真価に対し、明確なアドバンテージが聖霊のバプテスマにはあります。このことを次回さらにお証しできたらと思います。
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