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2019年5月12日 (日)

教会~召された人々

Ⅰコリント 1章2節     新改訳2017

キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 昨日の聖書箇所、へブル2章12節で「会衆」とありますが、別訳で「教会」でした。英語ではアッセンブリーと言い、集まり、集会のことです。一般的なChurchはギリシャ語の エクレシアecclesiaが語源ですが、エクとは~からという意味、レシアとは=呼ぶと言う意味で、アッセンブリーと同様、「(神)から呼び集められた人たち」という意味です。旧約聖書の時代から、教会とは「人々の集まり」という意味だったのです。

 ところが私がキリスト教に接し始めた十代の頃から、私にとって教会とは建物である会堂のことでした。屋根を消失した荘厳なノートル・ダム大聖堂から、森の中の小屋のような教会に至るまで、十字架が掲げてある所、そこが教会だと思っていました。日本では神社仏閣の境内・建物等が信仰の対象になるので、これは日本人の自然な感覚でしょう。しかしこれは拭い取らなければならない認識です。それだけでなく、この教会堂があることによって、実は大きな問題があることをクリスチャン自身ですら気づいていないのです。

 日本では宗教法人法という法律があります。会堂など税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と、財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要です(3章18,25条)。その意味もあって、教会では洗礼証明書とか転会状とかを必要としているのです。特に問題なのが3名以上の教会の根幹とも言える役員会です。私は立派な会堂を持つ大きな教会で役員を二十年しましたが、役員会はまさにこの世そのものであって、信仰とか霊性についての話は皆無でした。仕事の押し付け合い、様々な対立、これが教会だろうかと目を疑う連続でした。

 先週学んだように、教会はイエス様が「(ペテロの告白した)岩の上に」建てると言われたものです。その後、約束通り、十字架の死と復活によって死の力を滅ぼされ、教会はペンテコステの聖霊の注ぎによってスタートしました。聖書的には教会の頭はキリストであり、教会はそのみからだです。教会には設立の当初からキリストの霊が満ちているものなのです。その教会が、聖霊と告白する信仰を失っている例がなんと多いことでしょうか。
 ですから会堂はある意味、わなです。宗教法人法から、あるいは見える教会という物質化から守られています。会堂を持たない私たちは聖書の使徒時代の教会と同じです。本来の信仰オンリーの存在として、純粋で真実な教会です。私たちは恵まれているのです。
 
 何年か前の殉教聖会で「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」との呼びかけに対し、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、前に進み出ました。死を恐れない私たちの信仰こそ、真の教会であるしるしが現されているのです。

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