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2019年6月

2019年6月30日 (日)

聖書と信仰

Ⅱペテロ 1章20~21節
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。                       預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
   【新改訳2017】
私たちの群れは、キャンプやネットを介し、横の連携は非常に進んでいます。ただ縦糸に横糸が織られて布ができるように、縦糸も大切です。私たちの歴史は1984年4月前後からよく語られていますが、さかのぼって私たちの教会が使徒の時代から今に至る、聖書に最も忠実な教会であることを確認しましょう。

キリスト教会の歴史は使徒の時代以降、大きく四つの時代に分かれます。どの時代でも霊的な教会から始まり、聖霊を失ってすたれ、また聖霊の新たな流れが起きる繰り返しです。

まず、初代教会は私たちとまったく同じような聖霊のバプテスマや異言などの聖霊の賜物を用いる教会でした(使徒8:14-17,19:1-7)。ところがローマ帝国の公認となり、国教となって<1>カトリックと正教という千年にわたる東西教会時代、ひどく形骸化が進みました。そのため、聖書の姿に帰ろうと16世紀に<2>プロテスタントが誕生したのです。そのプロテスタントも当初の聖書中心から逸脱し、次第に進化論を受容し聖書を人間的な理解で解釈する教会が増えてきました。そこで「聖書は神の霊感によって書かれ、誤りのない神のことばである」とする<3>福音派が分かれ出て、原典に忠実な新改訳聖書までできました。私たちのP牧師はこの福音派で信仰を持たれたのです。

しかしこの福音派も聖霊の働きに関しては不十分でした。聖霊の賜物などは「すたれた」と主張しますが、その根拠とする1コリント13:8以降の「すたれ」は、「完全なもの」「顔と顔を合わせて見る」とあるキリストの再臨のことを指しているからです。つまり聖霊のバプテスマや、聖霊の賜物は今もあるとしているカリスマ派の教会が初代教会に最も近いのです。
この流れは1906年、ロスのウィリアム・J・シーモア牧師によってはじまったリバイバル運動が起源であり、K・クールマンへ、さらに日本の新井牧師に、最終的にはその副牧師であったP牧師の1984年へとつながって今日があるのです。

教会の歴史を見ますと、教会が成長し、成熟すると聖霊が失われて形骸化し、それがまた新しくされるというサイクルがありました。今私たちはその最終ランナーとして召されています。この重大な責務を今自覚しなければなりません。また神は必ず私たちを通してみ心のリバイバルを起こされることでしょう。ですから私たちはいっそう聞き従いを強め、用いられるよう祈って行かなければならないと示されるのです。

2019年6月23日 (日)

恐れとゆるしについて

ガラテヤ 2章19~20節  

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。   【新改訳2017】

<十字架なかりせば、私は絶対にゲヘナ行き>と確信を持っておられる方、いませんか?自分は絶対に地獄のゲヘナ行きだった、と知っている方は、それゆえに、神の愛とあわれみの大きさを骨身に沁みて知っていると言えます。自分の真の罪深さが分かっているかどうか、これが分岐点です。ですから「つぶれてはらわたが出たゴキブリ」と語られるP牧師を、野つぼの中のウジ虫と思っている者として、親近感と尊敬の念を持っています。

「もはやわたしが生きているのではない」この聖書箇所は本日の中心です。クリスチャンにもし、恐れるということがあるなら、それは神の戦士、証人としてはふさわしくないでしょう。注意深くしたりの小さな恐れではありません。恐れるなら退かされてしまいます。麻薬のように私たちができないことの言い訳と正当化に恐れを理由にします。ですから聖書では多くの箇所で、私たちに「恐れるな」と警告しています。
ただし、恐れたからと言って神が私たちを見捨てたりすることはありませんが、御心ではありません。では恐れる原因は何でしょうか。

このすべての原因に私は、罪の赦しを無力化させるサタンの策略があるとみています。十字架は全てを赦しているのです。それを感じさせず、まだ罪が残っているかのような誤魔化しにあって、罪の恐れに取り残されているのではないかと思うようになりました。

運転している時、パトカーを見つけたとします。違反していない時は全然平気ですよね。「ああ、ご苦労様」って。しかしたまたま違反状態にある時には、見つからないかと恐れがどーっと湧き、ビクビクします。それと同じように、実際は赦され罪から解放されているのに、まるでそうでないかのように感じているからこそ、恐れが湧き、恐れに支配されて行くのです。当然ですが、恐れは神から来ていません。

それではどうしたらよいのでしょうか。自分の真の罪がわかっていなければ、当然ですが、赦しも的外れで力の無いものです。罪の告白も形式的な、中身のないものです。十字架はこの私の罪のためであったと真の告白がポイントです。心から「あーっ、自分はゆるされたぁ。解放された!十字架は私のためでした。神さまぁ、ありがとうございます。本来地獄行きの者ですが、どうぞこれをあなたに献げさせてください。私は死んでこれからは、あなたのくださったいのちに生きます」と告白できます。ですからお勧めします。本当の自分の姿を神さまによって知らされ、悔い改められますよう祈ってください。試練はおそらく、このためにあります。感謝しましょう。

2019年6月16日 (日)

御座のまわり

黙示録 4章3節   新改訳2017

その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

 私たちクリスチャンの行き先について、黙示録ほど述べている聖書箇所はありません。しかしそれでも解釈に混乱があり、おどろおどろしい話、おとぎ話、黙示文学として見られて来ました。黙示録の正しい理解には時が必要で、今、その扉が開かれて来ました。

ヒロシマ・ナガサキへの原爆、1948年イスラエルの復興、EUの国家的な成長形成、最近ではロシアとイランの歴史的な関係進展など、現在は黙示録が現実化し、具体的に読み取れるようになりました。この書はまさに現代に生きる私たちのための啓示の書なのです。

さて黙示録では神の国の全体的な様子は21章の後半に記されており、この4章ではその中心部、主に御座のまわりのことが述べられています。御座は都の中心にあり、御座からの光で世界は光で覆われ闇がありません。都自体が神殿と化しているのでしょう。4章で描かれた情景で私が感じるのは、光の世界であり、中でも御座の周りがエメラルド色の虹で光り、御座の神ご自身も変化する光の中におられることです。全体がガラスのようなこの御座と都では、御座と横にキリストの座があり、聖霊なる神が七つのともしびとして輝いています。そのような光景を目の当たりにして、畏れと同時に感激し、狂喜しないクリスチャンがいるでしょうか。私は卒倒するほどになると思います。

この聖所に24人の長老と、四つの生き物とが登場します。12はイスラエルの全部族んも数ですが、今のイスラエルには北の十部族がいません。ですからこれにはいろんな解釈が可能ですが、12使徒の信仰に基づく新しい契約の全クリスチャンを指すと思われます。
四つの生き物に関してはもう少し明確です。エゼキエルにも現れたこの動物は神の全知をあらわす存在で、地の四方、つまりすべてを知り伝える大天使でしょう。現在はグーグルで地球の隅々まで見ることができます。がしかしこの四つの生き物はそんなレベルをはるかに超えた驚くべき天的な御使いであって、地球上の数十億の人々の髪の毛の数から心の隅々までを知り、その情報を神に伝え、異なる顔が示すように互いに完する情報のセンターではないかと思わされます。この推測ももちろん確証はありません。一切は実際に天に行ってわかることでしょう。それが私の楽しみでもあります。

私たちは血肉の死を怖れません。なぜなら血肉のからだがなく、御霊のからだで天の御国がわかるからです。その天において神と見え、本当の使命と喜びが始まります。その必要最低限なことを、この黙示録4章が教えてくれています。神に期待し、神に感謝します。

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年6月 2日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒1章8節    「聖霊のバプテスマ」

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     【新改訳2017】
 
聖霊のバプテスマを三つに分けて語らせていただきます。一つ目は「どういうものなのか」ということ、二つ目は聖書的な根拠を、三つ目は私の個人的な聖霊のバプテスマ観です。
まず聖霊のバプテスマとは、生きて働かれる神、聖霊様のリアルな体験です。ネットのはやり言葉、「リア充(リアジュウ)」だと言って言い過ぎではないでしょう。また人生を一変させる体験であって、自分の価値観にコペルニクス的転回が生じます。聖霊のバプテスマ、それは神のものであって、個人の心をすべて知られているあわれみ深い神の最善のタイミングで起こります。それまで知的な理解でしかなかった神を体験し、まさに「知った」瞬間ですから、祈ってもらって「自分が聖霊のバプテスマを受けたかどうか、よくわからない」なんてことはあり得ない種類のものだと私は思っています。  

ですから願われ続けること、祈ってもらうことは大切ですが、基本それは神のものであって、自分の時間や都合で得られるものではありません。どんなに祈ってもらっても、聖なる神との間に、気づかない障りが自分にある場合もあるからです。忍耐し、神に願い続け、愛なる神が取り扱いを持って必ず与えてくださることを信じましょう。

さて聖霊のバプテスマの最大の誤解は、聖霊の内住と同一視することです。教会の誕生日でもあるペンテコステの日には、すでにイエス・キリストを信じていた人々に聖霊のバプテスマが注がれました。この後ピリポのサマリア宣教において、多くのサマリヤ人が救われましたが、エルサレム教会はペテロとヨハネを送って、12人のサマリヤ人に聖霊のバプテスマを受けさせています(使徒8:14)。エペソに着いたパウロは、アポロの宣教で信じた人々がヨハネのバプテスマであることを知り、聖霊のバプテスマを受けさせました(使徒19:1-2)。このように、信じバプテスマを受けての聖霊の内住と、聖霊のバプテスマとは、通常は時間差があります。信仰において、初代から水のバプテスマだけでは不十分だと認識されていたのですが、それは今に至るまで全く変わっておりません。

「カリスマ宣言」では聖霊のバプテスマ、証人としての力を(1)信仰が堅くし、(2)メッセージや証しを通して主の力が現れ、(3)しるしと不思議のわざという神の道具が用いられると紹介しています。また(3)の九つの聖霊の賜物に関しては、教会の管理と吟味の中で運用されるべきものであると明確に規定されている通りです。

さて個人的な証しですが、この重要な聖霊のバプテスマは、言わば<神さまとの開通式>です。トンネルでも何でも、開通式は盛大にお祝いします。そんな祝福に満ちたものが聖霊のバプテスマだと言えるでしょう。お祝いなのにひっそり、当の本人がよくわからないなんてことはあり得ないと私は思います。私の場合も光に溢れ、空中に引き上げられたような、次第に減衰して行きましたが、三日間の素晴らしい体験でした。もちろん人に過ぎない存在が、この機会だけで神が全部わかる、なんてことはおこがましいことです。ホンの一部だけでしょう。それでも神を体験し、自分の人生における神がこれまで導かれ、忍耐されていた御手の軌跡を見、自分の価値など消し飛んでしむような圧倒的な神の偉大さ、聖、愛を知るのです。聖霊のバプテスマを受けた方は、即座に自分を投げ出してささげ、何とかしてみ心に用いてもらいたいと願うようになるはずです。

忘れてはならないことですが、自分の場合、神が触れてくださったのは、徹底的に自分の罪深さ、その醜さを知らされ、これまでにない悔い改めをしていた時でした。さすがにその時は、気づかされた罪深さに、初めて礼拝にさえも出るのに困難を覚えたほどでした。自分の真の姿を知って絶望した、まさにその時、神が触れてくださったのです。ですからその瞬間、私の生きる希望は神になりました。聖霊のバプテスマは、私の場合、このまず神が突然触れてくださり、語りかけてくださる開通式の体験の後に受けたのでした。

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