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2019年6月 2日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒1章8節    「聖霊のバプテスマ」

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     【新改訳2017】
 
聖霊のバプテスマを三つに分けて語らせていただきます。一つ目は「どういうものなのか」ということ、二つ目は聖書的な根拠を、三つ目は私の個人的な聖霊のバプテスマ観です。
まず聖霊のバプテスマとは、生きて働かれる神、聖霊様のリアルな体験です。ネットのはやり言葉、「リア充(リアジュウ)」だと言って言い過ぎではないでしょう。また人生を一変させる体験であって、自分の価値観にコペルニクス的転回が生じます。聖霊のバプテスマ、それは神のものであって、個人の心をすべて知られているあわれみ深い神の最善のタイミングで起こります。それまで知的な理解でしかなかった神を体験し、まさに「知った」瞬間ですから、祈ってもらって「自分が聖霊のバプテスマを受けたかどうか、よくわからない」なんてことはあり得ない種類のものだと私は思っています。  

ですから願われ続けること、祈ってもらうことは大切ですが、基本それは神のものであって、自分の時間や都合で得られるものではありません。どんなに祈ってもらっても、聖なる神との間に、気づかない障りが自分にある場合もあるからです。忍耐し、神に願い続け、愛なる神が取り扱いを持って必ず与えてくださることを信じましょう。

さて聖霊のバプテスマの最大の誤解は、聖霊の内住と同一視することです。教会の誕生日でもあるペンテコステの日には、すでにイエス・キリストを信じていた人々に聖霊のバプテスマが注がれました。この後ピリポのサマリア宣教において、多くのサマリヤ人が救われましたが、エルサレム教会はペテロとヨハネを送って、12人のサマリヤ人に聖霊のバプテスマを受けさせています(使徒8:14)。エペソに着いたパウロは、アポロの宣教で信じた人々がヨハネのバプテスマであることを知り、聖霊のバプテスマを受けさせました(使徒19:1-2)。このように、信じバプテスマを受けての聖霊の内住と、聖霊のバプテスマとは、通常は時間差があります。信仰において、初代から水のバプテスマだけでは不十分だと認識されていたのですが、それは今に至るまで全く変わっておりません。

「カリスマ宣言」では聖霊のバプテスマ、証人としての力を(1)信仰が堅くし、(2)メッセージや証しを通して主の力が現れ、(3)しるしと不思議のわざという神の道具が用いられると紹介しています。また(3)の九つの聖霊の賜物に関しては、教会の管理と吟味の中で運用されるべきものであると明確に規定されている通りです。

さて個人的な証しですが、この重要な聖霊のバプテスマは、言わば<神さまとの開通式>です。トンネルでも何でも、開通式は盛大にお祝いします。そんな祝福に満ちたものが聖霊のバプテスマだと言えるでしょう。お祝いなのにひっそり、当の本人がよくわからないなんてことはあり得ないと私は思います。私の場合も光に溢れ、空中に引き上げられたような、次第に減衰して行きましたが、三日間の素晴らしい体験でした。もちろん人に過ぎない存在が、この機会だけで神が全部わかる、なんてことはおこがましいことです。ホンの一部だけでしょう。それでも神を体験し、自分の人生における神がこれまで導かれ、忍耐されていた御手の軌跡を見、自分の価値など消し飛んでしむような圧倒的な神の偉大さ、聖、愛を知るのです。聖霊のバプテスマを受けた方は、即座に自分を投げ出してささげ、何とかしてみ心に用いてもらいたいと願うようになるはずです。

忘れてはならないことですが、自分の場合、神が触れてくださったのは、徹底的に自分の罪深さ、その醜さを知らされ、これまでにない悔い改めをしていた時でした。さすがにその時は、気づかされた罪深さに、初めて礼拝にさえも出るのに困難を覚えたほどでした。自分の真の姿を知って絶望した、まさにその時、神が触れてくださったのです。ですからその瞬間、私の生きる希望は神になりました。聖霊のバプテスマは、私の場合、このまず神が突然触れてくださり、語りかけてくださる開通式の体験の後に受けたのでした。

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