フォト
2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 2019年6月 | トップページ | 2019年8月 »

2019年7月

2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

2019年7月14日 (日)

どちらが易しいか

マタイ9章5節   
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。   【新改訳2017】 

イエスは天井から吊降ろされた中風の病人に「あなたの罪は赦された」と言われました。この時、ペテロの家にはイスラエル中の律法学者が詰めかけてすし詰め状態でした。

 このような国中の律法学者が集まった中で、教え癒やすのは、前職が教師でしたので、これは授業参観よりもはるかにきつい、多くの同業の教師の前でする研究授業に似ています。違ったとすれば彼らからすれば、イエス様を当時の高弟ヒレル門下でも何でもないただの田舎出なのに、おどろくべき不思議を行って大衆の人気を取っている、もしかしてメシアかも知れないが胡散臭い人物・・・・そんな警戒心やある意味、「この目で真贋を確かめてやろう」的な興味があったことでしょう。

 その中でイエス様は堂々と教え、聖霊によって病いを癒やしておられました。そんな時、突然天井に穴があき、光が射し込み、中風の患者が降ろされたのですから、きっと律法学者たちはみなびっくりしたはずです。今風に言えば「ここまでするかぁ。で、イエスとやらはどうするんだ」という感じでしょうか。
 
 さてそこで、誰もが次のシーンとして想像するのは<癒やし>ではないでしょうか。ところがそうではなく、「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言でした。律法的には「罪を赦す」ことは神にしかできないことであって、当然その場に居合わせた律法学者たちは、「冒涜」と感じたことでしょう。これは律法的には正しい判断です。ただし、イエスが神かさもなくば、本物のメシアであれば別です。このような状況を考えれば、イエス様は、「自分がメシアであり、神であることを明らかに宣言する」意図的な対応だったと言えます。

 寝たきりで吊り下ろされた人に、イエス様はなぜ癒やすのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは罪の赦しが根源的なものであり、癒やしに優るものだったからです。どんなに癒されても、もし罪が赦されていなかったらゲヘナに落ちるのです。
 また罪が赦されれば、必ず中風にも肉体上の癒やしが現されて行くことでしょう。しかしそれはある意味、二次的なことです。ですがパリサイ人律法学者たちに(彼らの目を醒ますために)、イエス様の神性を証明する即効の癒やしをされたのです。

 これがこの記事の概要です。以後、当然ながら国の宗教的指導者たちは、イエス様を殺そうと対決姿勢を強めることになり、イエス様も後に残す弟子たちの訓練を本格的にされることになります。

2019年7月 7日 (日)

悔い改めなさい

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。   【新改訳2017】

「愛の警告」という興味深いイラストを以前に見つけました。なぜ絵の右の人たちはFalse=間違った受け取りなのでしょう?悔い改めを拒んだから・・・その通りですが、その訳を考えますと、一つの見方として、自己中心な信仰だったと言えます。Photo_20190713231901だからヨハネの愛の警告=悔い改めができなかったのでしょう。
-「主よ」の意味 -
 神は御子の命をもって私たちを買い取ってくださり、信じる者すべての罪を赦してくださいました。ですから、信じた者は購われており、その命も神が所有される存在となりました。ですから私たちはすでに神のしもべ、奴隷ですので、主人に対して「主よ」と言うのです。
 ところが右の絵の人々は、神が自分の主であることを拒否するので、False(間違っている、あるいは偽り)のクリスチャンだとされているのです。
- 恐れるクリスチャン -
 一方で、どうしても不安や恐れに囚われやすいクリスチャンがいます。M・キャロザース師は「恐れと信仰とはまったくの正反対のもの」で、聖書で365回も「恐れるな」と書いてあるとその著「恐れからの解放」(p9ー10)で述べています。恐れるから信仰が無いなどとは言っていません。ではどうしたらよいのでしょうか。これが本日の主題です。
 - 赦され感 -
 十字架を信じた時点で、私たちの罪はすべては赦されていますが、それなのに、恐れの悪霊に立ち向かえない、あるいは受け入れてしまうには原因があります。この原因の一つに、赦されているのにその実感の乏しさ・・・・言わば「赦され感」が薄い所に原因があるのではないかと思います。自分はまだ罪があると感じる所に悪霊がつけ込んで来ると・・・・

「赦され感」の無さの原因をたどっていくと、罪を告白し信じたはずの自分が、実は本当の自分ではなかったとしたらどうでしょうか。それは自我を正しく認識できていない場合に、無意識の内に生じます。異なる自分の罪が赦されても、ピンと来ない、赦された実感がしないのは当然だからです。
 神は全知全能の神です。真実の自分の姿はどんなに罪あるものであっても、神はすべてをご存じであったのです。神の愛を信じましょう。恐れ、隠す必要は全く無いばかりか、隠している方が神を悲しませているのです。本当のあなただけが、恐れを追放します。

« 2019年6月 | トップページ | 2019年8月 »