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2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

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