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2019年8月

2019年8月25日 (日)

祈り

マルコ 11章24節  【新改訳2017】
 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

クリスチャンの祈りは個人的な経験上から大きく三つに分けることができると思います。
<1>聞かれると思っていない祈り
水曜夜に祈祷会を持っていても、ほとんどの時間は聖書の講解。祈っても、形だけの祈りに終始する事が多い。祈りが答えられることを知らないので、期待もしない死んだような祈りが多くの教会の現状である。祈りに、長い時間かけて祈ることができないのが特徴。

<2>祈りは答えられ、たとえその通りにならなくても最善になることを知っている祈り。
これは真のクリスチャンたちの祈りである。霊的にもある程度開かれた人たちの祈りであるが、ただし「御霊によって祈る」ことが未だ完全になってはいない段階の祈りである。

<3>達人の祈り
ジョージ・ミューラーのような人を指す。彼は孤児院を設立し、生涯にわたって1万人以上の孤児を寄付によってのみ救った人物であるが、その祈りの答えは世的に言えば奇跡の連続であって、疑う余地もないほど祈りが答えられた人である。

私たちの群れは<2>の段階にあるかも知れない。それでジョージ・ミューラーのような祈りを目指しているのは勿論である。彼はその著作「祈りの秘訣」で次の事を教えている。

祈りの土台としての信仰
主イエスのいさおと取りなしを全面的に信頼していること。 自分が知るすべての罪から、自分を分離していること。聖書の言葉を堅く信じていること。部分的にせよ、信じない聖書箇所があることは神を偽り者とすることである。 自分の肉によって祈る事なく、みこころが成ることだけを求めていること。 神に嘆願して祈れていること。

祈りの秘訣(主な点)
このような新工場の土台の上に、さらにミューラーは、第一に自分の心が全く個人的な意志を持たないような状態で祈っていることを重要視する。人は弱く、誰しも自分の意を汲んで受け容れられることを願っている。しかしこれが神のみこころを受け取る祈りの最大の障壁である。自分の人間的な願いや求めこそが最大の敵である。

次に祈り示された事柄が聖書の御言葉によって裏付けられること。それも意図的に人間的な要素が入らないようにしての聖書の裏付けがあることが重要である。

2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。

2019年8月11日 (日)

誰が救われるのか

マルコ 10章26節   新改訳2017
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 

 常に人だかりがあったイエス様の周囲で、ある日突然、誰もが知る立派な服を着た一人の人が皆から跳び出し、イエス様に駆け寄って来たのです。思いあまっての行動に違いありません。誰もが知っていた有名人物、非常に富んだ人、品行方正で評判の良い若き指導者でした。その地方の貴族とか議員のような人だったかも知れません。押さえて置きたいことは、当時のユダヤで豊かさは神から祝福を受けていると思われていたことです。

 その彼がなんとイエス様の前に出て膝まづき、思いあまったように質問をしました。「良い先生、永遠のいのちを得るためには何をしたら良いのでしょうか」と。この青年には真実を見分ける目があり、良質で正しい問題で悩んでいたのです。
 イエス様はこの青年に対し、十戒の第五から第九までを守るように言われました。青年はそれらを皆守っていますと答え、それでも自分には永遠のいのちが得られる感覚がないことを言わずもがな語っているのでした。

 この青年に対し、慈しみながらもイエスは「あなたに欠けたものが一つある」、それは十戒の十番目、隣人愛ですとズバリ指摘されました。そして具体的な解決法、「全財産を貧しい人に施し、その上でわたしに従ってきなさい」とイエスは言われたのです。

 ところが若者は多くの財産があったため、この勧めに従うことができませんでした。青年は世の富を捨ててまで、永遠のいのちを得ようとは思わなかったのです。悲しみながら去っていく青年に対し、イエス様は嘆息して「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのです。

 栄枯盛衰、世でのどんな富も時間とともに必ず消え失せます。富は死後の世界にまで持って行けないことは皆知っています。また愛する家族が、財産の相続を巡ってどれほど骨肉の争いを繰り返してきたことでしょうか。世の富、財産は、神の国を目指す者にとっては躓きの元となり、足かせとなり、自身を滅びに至らせる呪縛ですらあります。

「らくだが針の穴を通るより・・・」しかしその絶望に対し、「神にはどんなことでもできる」と神は手を差し伸べられています。神の恵みとあわれみは不可能を可能に、奇跡を起こすのです。

 世と富みに依存する心も、悔い改め、神のあわれみにより聖霊のバプテスマを受けるならば、全く価値観が変わってしまいます。それは畑で宝物を見つけた人のように、自分の全財産を売り払ってでも、その畑を手に入れようとすることに似ています。これは神がされる心、たましい、霊の奇跡であって、人には不可能なできごとなのですから。

2019年8月 4日 (日)

安息日論争

マルコ 2章27~28節   
そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
ですから、人の子は安息日にも主です。  【新改訳2017】

 最高の律法である十戒の第4条は安息日の戒めですが、守り方の具体的な事柄について聖書は何も述べていません。そこでパリサイ人たちはこれを事細かな1500余りの決まり事に定め(口伝律法)、その決まり事を守ることで安息を守ったこととしていました。

 今も変わらない安息日の規定を見て行きましょう。医学的な配慮は、生命が危険にさらされている時にだけ受けることができました。たとえば出産中の婦人は安息日に助けてもらえました。しかし、骨折や捻挫は生命に関わらないので治療は受けられません。指の切り傷は手当をしないで、ただ包帯を巻いて現状維持だけがゆるされたのです。

 さて舞台はカペナウムの会堂です。ここにサンヒドリンなどから遣わされた律法学者たちがあたかも裁判官のように上座に陣取っていたことでしょう。実際に行かれた方はご存知でしょうが、ペテロの家のすぐ近くにあります。問題はおそらくは周到に用意された人・・・・片手が萎えている人が居たことです。彼らの律法の規定によれば、命に別状無く、安息日に癒やされなければならない性質のものではありません。ですから彼を癒やすと、明確な安息日違反となり、死に当たる罪となります。これは実に見事な罠でした。

 イエス様はそのすべてをあらかじめご存知でありながら、堂々とこの会堂に入られ、きっぱりと対処をされました。彼を会堂の真ん中に立たせ、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、それとも悪を行うことですか」と問われたのです。命に代えても、律法の決まりを守ることで天国に行けると思っている律法学者は、この問いに答えることができません。守ることだけがすべてで、神の御心なんて考えたことすらなかったのです。

 続いて「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」という言葉が続いてます。律法の規定では安息日に、いのちの危険があった場合にだけ、救うことが許容されていました。しかし彼らは片手の萎えた人への愛は全くなく、ただ安息日違反だけを確かめに来たのです。安息日を設けられた神の御心など、想像することができなかったのでした。

 主イエスはこの対応を見、最後に怒って彼らを見回し、その心のかたくななさを嘆き悲しみながら癒やしを行われた。神を信じ、礼拝する者は人の作った規則や規律にとらわれない。その心は「かみのあわれみによって受けた愛とゆるしと奉仕」である。そのことを「小さい者たちの一人に一杯の冷たい水を飲ませる人(マタ10;42)」とたとえて主は語られているのです。片手の萎えた人をイエスを試す自分たちの道具に用いるパリサイ人たちこそ、弾劾され、裁かれなければならない人たちだったのです

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