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2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。

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