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2019年9月

2019年9月29日 (日)

伝道

 

ヨハネ 15章22節   新改訳2017

もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

 二十歳でバプテスマを受けた後、当初それがうれしくて、すぐ周囲の友達に福音を伝え回った。ところがテニス部の仲間は、ひとり以外は誰も信じてはくれなかった。その上、そのひとりもしばらくすると統一原理に走って、家族が上京するなど大変なことになった。その後、福音をきちんと伝えようにも、公務員の立場上できなかったため、異端に入られてしまったケースすらある。
 逆に親族の集まりで、最後の機会だとやむにやまれぬ思いで福音を語ったことがあった。関心を持たれた方もいたようだが、特に強硬に反対する人も現れ、結果としてその場はとげとげしいものになった。

 こうしたことから、求めて来られる人は別にして、伝道する場合は、ある程度関係ができ、フォローできる人に対して行うようにしている。聖書(ヨハ15:22)にあるように、福音を聞いてもその人が受け入れなかったなら、ある意味、聞いてしまったが故の審きの道に入らせてしまうことになりかねない。

 これらのことを踏まえるなら、伝道しようとする場合、現在では祈りの上に、神に示されたタイミングでの実践を心がけている。伝道とは自分の人間的な思いや力ですることではなく、神のみこころを行うことである。親子や兄弟であって、どんなに人間的に愛していても、神のみこころならば信じ、みこころならば信じない。救いは神のものであって、人の及ぶ所ではない。しかし神は私たちの祈りを聞いて下さる方でもある。たとえそれが人間的なものであっても、救いを願う祈りは神もまた同様なのだ。恐れずに神に願い求めるべきだ。その上で神に示された伝道は、たとえどのような反応や拒否に会おうとも、決してあきらめてはいけない。

 Photo_20191006024301(ジョージ・ミュラー)

問題は神に示されることである。ジョージ・ミューラーという人は、絶えず神のみこころのみを求め続けた人だが、他の人と異なったのは、神の答えを得るまでは祈り続けた人だった。ところが私たちはほとんどの場合、神の祝福を受けるまで祈り続けないため、未成就の祈りをやたら増やしているのではないだろうか。神に明確にみこころが示されるまで、祈り続けることを決してあきらめない、それを私たちの群れでは「祈りきる」と言う。

2019年9月22日 (日)

驚くべき逆説

ヨハネ 12章23~25節   【新改訳2017】 

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

「驚くべき逆説」
戦後大きく成長した教会は、先の大戦で軍部に抵抗し、牧師級の殉教者を出した教団の流れです。韓国ではもっと犠牲を払っていますから、この言葉は証明されているのです。種は発芽という死によって、一粒の種が何十倍、何百倍と実を結びます。自然のこの驚くべき法則は、信仰にも同じことが確かに言えるのです。

「自分を憎む」とは?      Holyspirit
信仰を持たれたのは、みなさん、ご自分のために良かれと思ってお信じになったはずです。それなのに「憎むなら、永遠のいのちに至る」とはどういうことでしょうか。いったい、自分が一番大切なはずなのに、このことばは一見して理解が困難です。自分の命を失ったら元の木阿弥で、何が得られるというのでしょうか。

○憎むと言う言葉は基本的に使いたくない言葉だと思われますが、聖書では全く違う使い方をしています。それは自分自身の心の内側、その世的な志向、絶えず攻撃し惑わしてくる肉なる思い、それらをまとめるなら自己愛と言うことになるでしょうか。「憎む」とはこのような自分に対して、神の霊によって戦うことを意味するのです。自己愛の死、それはつまり神がその人の主となることであり、みこころの人となることを意味します。(※参照「自分を捨て、自分の十字架を負って」・・・マタイ16:24、マルコ8:34など)

この自分に死ぬことは、決して一度きりで終わるものではなく、血肉のからだがある限り続く、執拗な戦いとなります。常に神に祈り、聖霊の力に依り頼むしかありません。ですから懲りない相手に対し、「憎む」という強い意志をでの表現になっているのです。このように、繰り返されていく戦いの段階に入っていない方にとって、「憎む」意味が理解できないのは当然です。どのようなクリスチャンでも、神の時が来た時にはわかることでもあります。

2019年9月15日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒の働き 19章6節    新改訳2017
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

 バプテスマには水のバプテスマと聖霊のバプテスマがある。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることは当然視されていた。今日に至って二つの異邦人の例(※使徒8:5-17,18:24-19:6)のように、水のバプテスマしか知られていないのは、それだけ現代が不信仰な時代であることを物語っている。

  聖霊のバプテスマは価値観が180度変わるものであるから、どんな人にとっても二つのバプテスマは人生最大の出来事である。そのように自身が変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。疑い深い者から確信を抱く者へ、神に属する者へと。それは愛と光の中、魂が揺さぶられる感動と、神は生きておられた歓喜に満たされる時である。

 聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物が現れるが、それらは神の栄光の現れであって、決して本人のものではない。もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、自分がそれによって引き上げらる期待が混じっていたならば、どんなに祈り求めたとしても、引き続き訓練を受けざるを得ないだろう。その人の信仰は、信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それほど変わらないからだ。

 次に聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に期待して的外れに近い。受けたとしても、執り成しは否定できないが、基本たまたま神の時であっただけであろう。神からのものを「あなたは受けています」と人が言えるはずもない。

  ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知見するのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、と様々である。共通しているように見えるのは、自分に望みを失い空しくなったり、己の罪がわかって心から悔い改めていた時だろうか。その人の中で、神が主とされるべき時と言うべきだろうか。

 聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。またこれを受けないと、真の献身は困難である。罪以前の神との日々の親しき交わりがその中身なのだ。実の子のように、「アパ父よ」と呼びかける自分にも驚くようになるだろう。三位一体についても理解が増す。バプテスマのヨハネが言った通り、神と交わり、神から来るのでなければ、私たちは何も出来ないのである。

✝ヨハネ3章27節 新改訳©2017
ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」 

2019年9月 8日 (日)

みこころの祈り2

Ⅰヨハネ 5章14節    新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 昨日の土曜日「なつぞら」では、ちょうど主人公が「大草原の小さな家」に取りかかろうとするシーンでした。放送の次の番組がなんと実写版の「大草原の小さな家」だったのでびっくりしました。しかもそのタイトルが<ローラの祈り>だったのです。「祈り」のメッセージを続けていましたので、みこころを感じました。
 さて<ローラの祈り>とはこんなストーリーでした。パパっ子のローラは、三人姉妹にはじめての誕生した男の子である弟に、父があまりにも喜んで夢中なのを見て、心が穏やかでありません。そして生まれたばかりの弟が原因不明の病気になると、そのための癒やしの祈りができませんでした。その弟が死んだ時、ローラは自分の罪を感じたのでした。<ローラの祈り>とは、父の喜ぶ弟が生きかえること、そのためには自分のいのちを差し出すという願いでした。

 このドラマを観ていて「これは、かなり事実に近い体験があって、それを元にして作られた作品ではなだろうか」という印象を持ちました。これは「罪の赦しを求め、身を犠牲にしてでも神に答えていただこうとする祈り」です。そしてローラは、これをかなえてもらえるために、神に近いと思われた高い山に登り、神に答えられるのをまさに身を賭して祈ったのです。

 しかし基本的にみこころの祈りでなければ、その願いは届きません。神に心から祈り求めて、その答えがなかなか来ないとすれば、それはその人の願っていることが自分の目に良かれとしている肉的なものだからです。
 またローラの弟が召されたように、人間的には理不尽に見えたとしても、神にはそれを越える深い計画があるのです。神は最善のことしかお出来になりません。ですから悪いと思えることでさえも私たちは感謝します。これは信仰であり、この事を通して、神の最善の計画が始まることを信じるからです。

 自分の祈った通りになることが、みこころの祈りではありません。神のみこころ、神の計画が最善であり、それが実現して行くよう祈る事がみこころの祈りです。自身の思いや願いではありません。あるとすればせいぜい、人間的な自分の思いであることをわきまえながら、それを神に知っていただく事でしょう。しかし神はすでにご存知なはずです。繰り返しますが、神は最善しかおできになりません。その通りになることだけを喜びましょう。

2019年9月 1日 (日)

みこころの祈り

 Ⅰヨハネ 5章14節   新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 私が聞いた話です。山陰で日の出が遅い家に住んでいた少年が、ある時教会学校で、心に信じて疑わずに祈ったら、その通りになるという御言葉(マルコ11:23)を学びました。少年は家に帰ると裏山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と心から信じて祈り、翌朝を楽しみにして寝ました。さて次の日、少年が目が覚めてみると、いつものように山はあり、少年はすごくがっかりしたという話でした。

この話には、祈りについて重要な点があることを教えてくれました。確かにどんなことでも祈って良いのですが、ただ神のみこころを祈ったものだけがかなうのです。ドラえもんのポケットのような意識で、自己本位な祈りをどんなに数多くしても、聞かれない祈りにかえって信仰が萎えて行くだけなのではないでしょうか。みこころでなければ、最善の神の計画をさまたげるだけです。

では人は如何にして人は「みこころ」を知り、みこころの祈りができるのでしょうか。本日のテーマはその問いに答えようとするものです。
イエス・キリストさまが世に居られた時から約束してくださったもの、それが聖霊です。ある意味、福音と聖霊の時代を開くために、十字架の主は来られたのです。このことはペンテコステで成就しました。これ以降、すべてのクリスチャンに聖霊の内住がそそがれたのです。聖霊は私たち一人ひとりを導く神の霊であり、助け主、慰め主、癒やし主です。私たちがみこころを求める時、この聖霊なる神と交わり、祈り、聞き従うのです。

しかし単に神を信じているだけのクリスチャンにとって、みこころを聞くことはほとんど不可能です。みこころを聞いても、それに従うことが出来なければかえって災いになります。神の声に似せたサタンの惑わしをも見分け、受け入れてはいけません。

一言で言えば、聖霊のバプテスマを受け、新生することがみこころを聞く土台です。このようなクリスチャンはすべてを神にささげますし、死を恐れなくなります。その人は天の御国のものだからです。
聖霊のバプテスマは、超有名な伝道者や牧師を頼り、祈って授けてもらえる性質のものではありません。またどんなに熱意を持って祈り求めても、みこころですが、すぐさまリクエストに答え、受けられる性質のものではありません。聖霊のバプテスマは、ただ唯一神からのものであり、神の時に受けられる性質のものです。ですから神は喜んで与えようとしておられるのですが、その前に罪のない状態、聖潔化が前提です。これは自分にまったく希望を失うほどの悔い改めが土台です。自身の罪深さ、真の姿を知っての献身であり、神の時までの、その人の忍耐も試されるのです。これがみこころの祈りの土台です。

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