伝道
✝ヨハネ 15章22節 新改訳2017
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。
二十歳でバプテスマを受けた後、当初それがうれしくて、すぐ周囲の友達に福音を伝え回った。ところがテニス部の仲間は、ひとり以外は誰も信じてはくれなかった。その上、そのひとりもしばらくすると統一原理に走って、家族が上京するなど大変なことになった。その後、福音をきちんと伝えようにも、公務員の立場上できなかったため、異端に入られてしまったケースすらある。
逆に親族の集まりで、最後の機会だとやむにやまれぬ思いで福音を語ったことがあった。関心を持たれた方もいたようだが、特に強硬に反対する人も現れ、結果としてその場はとげとげしいものになった。
こうしたことから、求めて来られる人は別にして、伝道する場合は、ある程度関係ができ、フォローできる人に対して行うようにしている。聖書(ヨハ15:22)にあるように、福音を聞いてもその人が受け入れなかったなら、ある意味、聞いてしまったが故の審きの道に入らせてしまうことになりかねない。
これらのことを踏まえるなら、伝道しようとする場合、現在では祈りの上に、神に示されたタイミングでの実践を心がけている。伝道とは自分の人間的な思いや力ですることではなく、神のみこころを行うことである。親子や兄弟であって、どんなに人間的に愛していても、神のみこころならば信じ、みこころならば信じない。救いは神のものであって、人の及ぶ所ではない。しかし神は私たちの祈りを聞いて下さる方でもある。たとえそれが人間的なものであっても、救いを願う祈りは神もまた同様なのだ。恐れずに神に願い求めるべきだ。その上で神に示された伝道は、たとえどのような反応や拒否に会おうとも、決してあきらめてはいけない。
(ジョージ・ミュラー)
問題は神に示されることである。ジョージ・ミューラーという人は、絶えず神のみこころのみを求め続けた人だが、他の人と異なったのは、神の答えを得るまでは祈り続けた人だった。ところが私たちはほとんどの場合、神の祝福を受けるまで祈り続けないため、未成就の祈りをやたら増やしているのではないだろうか。神に明確にみこころが示されるまで、祈り続けることを決してあきらめない、それを私たちの群れでは「祈りきる」と言う。
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