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2019年12月29日 (日)

神のお人柄

ヨハネ14章26節    【新改訳2017】
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 昔、各地のクリスチャンが集まって親しく話をする機会がありました。その時感じたのは、「神を信じる者が十人いたならば、それぞれ十人十色の信仰と神様観があるんだな」という感想でした。確かに神は人間の理解を超えた存在であって、「群盲象を評す」とその時は思ったものです。

 しかし、三位一体なる神は唯一であり、十人各々の異なる神がおられるわけではありません。多くの人の聖霊のバプテスマ体験を聞くなら、多少の相違はあっても、弱さを知り悔い改め、神に自分を明け渡す不思議な特徴があり、たましいの奥底を揺さぶられるその証しからは、間違いなく同じ神であることがわかるのです。

 さて、あるクリスチャンの神様観は「義なる神で、厳しい裁きをされる怖ーいお方である」であったとします。そのクリスチャンは神に聞き従う忠実な者となりましたが、どうしても神の懐に飛び込むことができないのでした。逆にあるクリスチャンは、神はサタンにすでに勝利されているので、サタンなんか恐れるに足りずと侮っていました。ところがその侮りが自分の力を過信したり、神に対しても聞き従いが弱くなる一面があったのです。

 では神様って、どんなお方なのでしょうか? それには人となって来てくださったイエス様を知ることです。私の神様観はルカ七章の「罪深い女」の話に出る、赦しの愛がピッタリします。罪深い女は、その土地の名士であるパリサイ人シモンとは真反対の対応をイエスにしました。当時、迎え入れた客人に対してする、足洗いの水さえ出さなかったシモンに対し、この女は涙でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけをして香油を塗った(38節)のです。女の対応にイエスは【多く赦された者が、多く愛する】と言われたのです。多く赦された自分の罪がわかる、これが私の神観のポイントです。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました   (ローマ 5章20節)とあります。
神はなぜ、放蕩するとわかっていても弟息子に放蕩を許されたのでしょうか? 自分を知らせ、悔い改めさせ、真の父の愛を知らせるためでした。本当の心は、赦されなければならない心から生じるのです。自分の罪深さを知ることは、神の赦しと愛がわかり、神に喜んで自分を捧げるようになります。
 エデンの園の中央に、わざわざ置かれたのも、放蕩を許されたのも、すべては神が私たちの本当の心を得られようとしている証左です。そこまで神は私たちをお求めなのです。この愛に、私たちは真に生かされるのです。

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