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2020年1月

2020年1月26日 (日)

みこころを確かめる

民数記 12章6節   【新改訳2017】
 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

 私たちの教会は、礼拝する場所に今、窮地に立たされていました。いつも礼拝していた施設が半分ぐらいの割合で使えなくなったのです。その上、借りていた教会事務所の更新も迫っていました。私たちは感謝する中、これには何らかの御心があると促しを感じ、聖会が終わった直後の1月12日、いつもの不動産屋さんに行って相談をしました。御心の礼拝場所、心から賛美できる地を求めて。

「心から神を賛美し、礼拝したい」そんな願いを言うと「そんな場所はあり得ない」と初めは取り合ってもらえなかったのですが、ある担当者が「一軒家で楽器可なら可能かもしれない」と助け船を出し探してくれました。そしてその物件がたった一つだけありました。

 問題は入居するための初期費用が、私たちの予算を大きく超えていた事でした。次に単に楽器可だけでなく、教会として借りる事、管理人として教会員家族が住む事など、こんな条件をOKしてくれるのだろうか、当初とても不可能と思えるばかりでした。

 そんな中、滅多に夢など見ない私が、数日経って不思議な夢を見ました。さらにそんな夢をどうした事か、早天の祈りの中で皆に語ってしまいました。その夢とは【ある薄暗がりの部屋に入ると、白っぽい猫が私のすぐ横にいました。「ええっ、猫がいる」と思ったのですが、さらに奥の方には、私の猫がいることに気づきましまた。それで「お前たち、仲良くしていたんだね」と私は言ったんだ……】そんな夢でした。

 この夢は1月16日(木)のことで、うっかりすぐの早天で話したのです。この話を聞いていた妻が突然「ええっ、白い猫!」と声を出して驚きました。直前のケパドルブログで、白っぽい地域猫の話題を取り上げたと言うのです。夢が解き明かされました。私が見た白い猫とは地域の人々のことで、その人々が私達と交わるようになるという示しだったようです。つまり今度の会堂は、そのように地元住民との交わりのために用いられる、と。

 これ以外にも管理人として住んでくださる教会員、初期費用が信徒全員の献金によって完全に満たされた事、関東予選会の賛美曲、貸し主がこちらの側の要望のすべてを受け入れてくれた事など、沢山の確認事項が与えられました。この度の移転は、私たちの祈りに応え、心から賛美できる礼拝を実現させようとする神の導きなのです。ハレルヤ!

2020年1月19日 (日)

クリスチャンは大抵はクズの集まり

 ルカ 9章23-25節   【新改訳2017】
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 YouTuberのイザヤ君の「クリスチャンは大抵くずの集まり」を観ると同感するのですが、自分がくずである自覚がないと、十字架の神の愛とあわれみがわからない、そのように私たちはできています。逆に言えば、能力の高い人や世で良い地歩を占めている人々は、こと救いに関しては遠いです。それでも救われている人は、その心の中に大きな苦しみを抱えていた人でしょう。

 さて、このことを聖書で「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言っています。この御言葉は、よく知られている割には逆説的な言い回しで難解です。実際の意味がわかるのは聖霊のバプテスマを受け、新生した方でしょう。ですからイザヤ君の「クリスチャンの大抵はクズ」も、これによく似ています。

 私の思い込みですが、クリスチャンで「自分はクリスチャンだから、他の人より清く正しい生活ができている」と思うなら、恐らく御前に出たときに叱られる事になるでしょう。清さ正しさを否定しているわけではありません。それは神のものであって、人のものではないと思わされています。聖霊を自分の主として歩んでいるならば、その聖さの前に、己はその弱さ、罪深さがますます明らかにされるのです。

 自分に一切の価値を認めず(自分に死んで)、ただ真摯な罪の告白の上に、神の愛とあわれみが注がれるのを体験するのです。繰り返しますが、完全に自分を献げ、自分の主は自分から聖霊なる主に移行していなければなりません。併存はありえません。その上であわれみと赦しによって、罪から解放された自由、何にも優る神の力を見るのです。神と交わり、その神から高価で尊いとされる愛の中で、私たちは真に生きる喜びを知るのです。                                        

<勧めの御言葉>

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙 4章16節 ©2017

 

2020年1月12日 (日)

流されないで確信に立つ

ヘブル 2章3-4節   【新改約訳2017】
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

 最近私たちの群れでYouTuberが募集され、この呼びかけにすぐさまいく人かによって作られました。た中に、「カルトかどうかはてめえが決めろ!」がありました。タイトルこそ刺激的ですが、要はネットなどでの批判や中傷に対し、風評や単なる決めつけではなく、自分の目と耳で「本当にカルトなのかどうか」確かめて判断して欲しいということでした。
 確かに、そうでなければ、ただ無責任に付和雷同しているだけです。このようなネットでの無責任な書き込みが、今や社会問題になっています。しかもこのような事が、真の信仰の道を求める人たちを惑わしたとすれば、その報いは考えるのも恐ろしいほどです。

 私自身、三十年間福音派のクリスチャンでした。その経験から言えることは、彼らが聖霊について無知であるということです。聖霊の助けなしには新生もなく、聖書も核心部分が理解できません。ですから見えない人が見える人を裁いているのが現実なのです。実際、カリスマの私たちの方が聖書に忠実であり、生ける神の聖霊が働く、真の教会なのです。
 私たちには荘厳で立派な会堂はありません。世で成功し、社会的な地位がある人の割合は少ないことでしょう。しかし教会とは建物や人の外見ではなく、信仰こそが全てです。
"教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです"(エペソ人への手紙 1章23)ここで「満たす」とは聖霊なのです。

 ところでルカによる福音書7章18-23節に、洗礼者ヨハネが弟子の二人をイエスのもとに遣わし「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と問い合わせています。イエス様はその二人の弟子とヨハネに対し、今この瞬間にも起こっている見聞きした事実だけを伝えるよう語られました。
「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」これはメシア預言の成就を確証させるものでした(イザヤ53章他)。その他のメシアであることを証しとしては、ダビデの子孫であること、ミカ書で預言されていたベツレヘムでの生誕とか、聖書全体がそうであることを物語っています。

 私たちは見るもの、聞くものによって押し流されないで、ただキリストの証人として堅く立つのです。その力は神を体験として知っているからです。つまり聖霊の満たし、聖霊のバプテスマです。私たちは世人よりも、神の御心を選び、従う生きた証人なのですから。

2020年1月 5日 (日)

赦され、愛する

ルカ 7章47節   【新改訳2017】
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 私たちは癒やしの教会ですが、どんなに体が癒やされても、それが信仰に結びつかなければ何の意味もありません。癒やされてもそれは少し延命だけで、人は遅かれ早かれ必ず死ぬのです。真の癒やしは、永遠の存在である魂の癒やし、霊の回復です。イエス様はそのために地上に来られました。
 さて、多くの病いを癒やすだけでなく、多くの罪をイエス様は赦されました。罪の赦しとは霊・魂の癒やしになります。病いをただ癒やすだけでなく、その根本の霊を癒やす、それがイエス・キリストを信じることです。しかしそれができるのは神だけです。どれほどパリサイ人の反感と憎しみを買おうとも、イエス様は赦しの癒やしを止めることができませんでした。その為に来られたのですから。

 さて、本日の聖書でイエス様は「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」と言われました。逆に「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とはっきり言われました。一方で神を愛する人がおり、また、どうしても愛することがわからない人もいます。愛するならば、例えば映画パッションでのイエスへの鞭打ちのリアルシーンを観て、あの鞭の痛みを我が事のように感じるはずです。

 そういうわけで、罪深い女だけでなく、長血に苦しめられた女、ゲラサ人の地で墓場に住んで、レギオンほどの悪霊に憑かれていた男など、赦され救われたこれらの方々は、イエス様を心から慕い愛する者に変えられたと私は信じます。罪深さはなんと全くの逆転、永遠のいのちと信仰、結果としてそれに見合う癒やしを得る恵みの道だったのです。

 「心の貧しき者は幸いである」とは以上のことを指しています。罪の意識は人を苦しめますが、十字架の赦しの道を見出したならば、祝福され、愛と自由の中、永遠の魂の安息を得ます。赦されなければ愛することができず、これら神の愛の恵みを十分には受け取ることができないからです。繰り返しますが、赦しと愛とは表裏一体なのです。自分を正当化し、赦されることの飢え渇きを感じない人は、不幸です。

 神は最善を私たちに与えようとしておられ、赦されることなしに神を知ることができません。偽りの祝福を与えることはおできになりません。私たちの魂を妬むほどに求めておられるのです。

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