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2020年1月19日 (日)

クリスチャンは大抵はクズの集まり

 ルカ 9章23-25節   【新改訳2017】
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 YouTuberのイザヤ君の「クリスチャンは大抵くずの集まり」を観ると同感するのですが、自分がくずである自覚がないと、十字架の神の愛とあわれみがわからない、そのように私たちはできています。逆に言えば、能力の高い人や世で良い地歩を占めている人々は、こと救いに関しては遠いです。それでも救われている人は、その心の中に大きな苦しみを抱えていた人でしょう。

 さて、このことを聖書で「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言っています。この御言葉は、よく知られている割には逆説的な言い回しで難解です。実際の意味がわかるのは聖霊のバプテスマを受け、新生した方でしょう。ですからイザヤ君の「クリスチャンの大抵はクズ」も、これによく似ています。

 私の思い込みですが、クリスチャンで「自分はクリスチャンだから、他の人より清く正しい生活ができている」と思うなら、恐らく御前に出たときに叱られる事になるでしょう。清さ正しさを否定しているわけではありません。それは神のものであって、人のものではないと思わされています。聖霊を自分の主として歩んでいるならば、その聖さの前に、己はその弱さ、罪深さがますます明らかにされるのです。

 自分に一切の価値を認めず(自分に死んで)、ただ真摯な罪の告白の上に、神の愛とあわれみが注がれるのを体験するのです。繰り返しますが、完全に自分を献げ、自分の主は自分から聖霊なる主に移行していなければなりません。併存はありえません。その上であわれみと赦しによって、罪から解放された自由、何にも優る神の力を見るのです。神と交わり、その神から高価で尊いとされる愛の中で、私たちは真に生きる喜びを知るのです。                                        

<勧めの御言葉>

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙 4章16節 ©2017

 

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