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2020年3月29日 (日)

赦しといやしの違い

マタイ 9章5節   【新改訳2017】
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 多くの方はイエス様のこの問いに、なかなか答えられません。私自身も「う〜ん、難問だ、罪を赦すことと、病を癒すこと、さてどっちが易しいんだろう」と考えて、その落とし穴にはまっていました。その穴の中では、次のように考えていたのです。

 罪を赦すことは100% 神の主権だから困難(カトリックの告解や一部の教派では可能なようですが、聖書から見れば誤り)、それに比べて癒しも基本がすることだから、いくら祈っても癒されるとは限らない。どちらも神のものだが、あえて易しいのがどれかと言えば、可能癒しかな?などと・・・云々。ところがこのような考えは全く的外れであることがわかりました。

 ではどう言うことでしょうか。これは律法学者へ問いでした。当時のユダヤ社会では富は神の祝福、病は罪の結果と考えられていました。この男の重い痛風は、人々は罪の結果だと受け止めていました。痛風の男自身も、そう思っていたかも知れません。しかしたとえそうであっても、周囲の人々には信仰がありました。彼らによって運ばれたこの人に、イエス様は根本的な癒し、「あなたの罪は赦された」と語られたのです。しかし罪の赦しは癒しと異なって、すぐに周囲の人にわかるような外面的な変化はありません。

 変化がなくわからないために律法学者は、イエス様の言葉だけに反応し、冒涜だとみなしました。人に過ぎない者が罪を赦すならば冒涜ですが、神、または神からの権威であれば正当で栄光です。それでイエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」癒しをあえてあらわされたのです。

 この癒された男は、自分の罪が赦されたことが、語られた一瞬でわかったはずです。どれほどの平安と歓喜に包まれていたことでしょうか。これはその赦しを受けた経験者でないとわからないことです。その彼にとって「起きて寝床を担ぎ、家に帰る」などはおまけみたいなことです。しかし人々にとっては、神にしかできない驚くべき大奇跡でした。また「罪を赦す」イエス様の言葉が真実であったことの証明でもありました。律法学者たちちとっては、まさに「グーッの音も出ない」出来事になったのです。

 結局この「どちらが易しいか」との問いは、AかBかの二者択一の問うものではなく、律法学者たちに「神の国が近づいた」ことの福音を、律法学者たちに知らせるための癒しでした。たとえその収穫がわずかであったとしても。

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