印と刻印
✝ 黙示録 20章4節 【新改訳2017】
また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた
印と刻印の違い…似たようなものとも言えますが、印とは基本、印鑑のように証明するものです。それに対し刻印は、所有するしるしが消えないようにするため、彫ったり刻んだりするものです。ですから刻印は所有する道具に刻んだり、家畜に焼き印を押したりします。人の入れ墨も刻印の一つでしょう。特に人への印とか刻印は、二次大戦でナチスがユダヤ人の上着に強制して付けさせたダビデの星や、腕章が思い出されます。
さて、神は悔い改めた心に聖霊を送られ、その実を結ばせ、心に救いの証印を押されることはありますが、目に見えるような外見的な印はつけられません。人の心の中まですべて見通される方に、外見的なものは無用だからです。ところが被造物に過ぎないサタンとその部下たちは、目に見える印、印や刻印しかわかりません。ですから自分のものにした魂に、やたら刻印を押したがります。これが神とサタンとの大きな違いです。
サタンは印や刻印は「形式的なものだから、受けて信仰生活を続けなさい」などと言葉巧みに誘うでしょう。しかしクリスチャンは、この目に見える印や刻印を決して受けてはいけません。拝するのはただ神お一人です。四十日四十夜されたイエスさまの断食でも、サタンは最後に全世界を見せながら、「私を拝むなら」と言いました。自分を拝ませようとしたサタンの本質は今現在もまったく変わっていません。
もしクリスチャンが神以外のものを拝むなら、その瞬間、サタンとともに真っ逆さまにゲヘナ落ちが確定します。黙示録は幾度もこのことを警告しており、これは真実です(黙示14:9−11,16:2,19:20)。
真のクリスチャンはたとえ殺されても、神以外のものを決して拝んではなりません。ことは短い血肉の時間のことではなく、永遠のことだからです。また、キリストのために死を余儀なくさせられての死は殉教と言い、神に召された特別な恵みです。殉教者は千年王国などではキリストとともに王となり、神の都を住まいとするからです。
今の時代と逆に、キリストが王となって支配する千年王国時代においてすら、最後にはサタンが解き放たれ、試練が来ます。結局、どんな時代でも、神を信じる者には、たとえ殉教まで行かなくても、血肉の命か、それとも神を選ぶかの選択は必ず迫られるようです。その際、最もポイントになることは、この試練に勝利を得るためには、ふだんから神と交わり、神を知り、神を愛し、信頼を醸成することにあるようです。この試練は自分の努力や力では耐えられるものではなく、聖霊の助けなしには不可能です。
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