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2020年4月

2020年4月26日 (日)

自分を捨て自分の十字架を負って

マルコ 8章34-27節   【新改訳2017】

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

 聖書では「悪は、みな内側から出て来て、汚すのです(マルコ7:23)」とあるように、人とは罪深い存在です。その罪深さを認識するかしないかが、各人の生き方に決定的な違いをもたらします。さらに言えば、イエス・キリストの十字架の愛を知らずして、この望み無く救われ難い己の罪深さに向き合えません。

 昨日の土曜日の仕事中でのことでした。スタッフの雑談でこんな話を聞きました。子どもたちに命の大切さを教えようと、「命っていくつあると思う?」と尋ねた時、なんと「二つある」と答える子がいてびっくりしたと言う話でした。心の中でですが、「その子は間違ってなんかない」と私は思いました。

 私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活の二つのいのちにあります。はじめの血肉の命は、もう一つのいのちのためにあります。もう一つのいのち、それは霊体ではなく、最終的には血肉にまさる御霊の体となります。この滅びない御霊の体を持って、天のエルサレムで神と共に生きることこそ、私たちの目的です。ですからこの二つ目のいのちをめざし、「自分を捨て、自分の十字架を負って」この世を歩んで参ります。

 ただし、この「自分を捨て」が容易ではありません。それどころか自己中心という罪深い己の罪性に、自分の力でできることに絶望しています。それでただ、神のあわれみと愛に依り頼み、期待するしかない自分があります。そのことを「自分の十字架を負って」と理解しています。どんなに祈り願っても、神に自分を捧げ尽くすことができない自分。その罪深い自分を偽らず、ありのままに赦され、十字架として負い続ける意味であります。

 今回、38節の「恥じる」意味に示しがありました。「拒む」と同義語ですが、どうして「恥じる」のでしょうか? 「恥じる」とは、迫害の時代にあって信仰を問われた際、クリスチャンと告白できなかった人が、後になって良心を責められ、悔い、恥じるという「恥じる」の意味だと。その人は血肉の命よりも霊のいのちを優先できなかったのです。しかし主はそれに対して明確に答えておられます、「私も恥じる」と。
 迫害では、取り調べで役人たちが「なあに、そんなに深刻に考えなくてもいいんだよ。ただ踏み絵を一度踏むだけで助かるんだ。信仰はお前の心の中で守り続ければいいじゃないか」と囁くことでしょう。しかしイエス様は明確にそのことを「ノー」と言っておられるのです。主を辱める事のないよう、第二のいのちを得るよう、目を覚まして祈り備え、全てをご存知の神の力に期待し続けましょう。

2020年4月19日 (日)

疫病の時代

Ⅱ歴代誌 20章9節   【新改訳2017】

『もし、さばきの剣、疫病、飢饉などのわざわいが私たちを襲うなら、私たちはこの宮の前、あなたの御前に立ちます。あなたの御名がこの宮にあるからです。そして、私たちは苦難の中からあなたに叫びます。あなたは聞いて、お救いくださいます。』

 今年になって、疫病の新型コロナウィルスが世界的な大流行(パンデミック)となりました。3月1日にも触れましたが、今回、さらに対応と言う面で語ることを示されました。

 その時にも触れましたが、人類が経験したのは今回が初めてのことではありません。14世紀、雲南省から全ヨーロッパに猛威をふるった黒死病(ペスト)は、致死率60%の恐るべきものでした。イタリアのジェノバでは人口6万が2万4千人になりました。40度の熱が発症したかと思うと直ちに呼吸困難になり、数日で死んだと言われます。
 それ以後、15世紀の天然痘、百年前のスペイン風邪、32年前の香港風邪や、最近数カ国内で抑え込みに成功したSARSなど、その多くは中国発でしたが、世界は疫病に見舞われ続けて来たのです。

 一羽の雀でさえも神の許しなしに地に落ちることはないのですから、通常このような疫病は神の許しなしには起こり得ません。ではクリスチャンはどのように対応したら良いのでしょうか。
 勿論多くのクリスチャンは自分が罹患しないように祈られることと思います。しかし今回、私が示されていることは、この病は信じる者信じない者の区別なく罹患するだろうと言うことです。「え~っ、それじゃあ、信仰の意味がない」と思わないでください。要するに御利益信仰では効果は無いと言う意味です。しかし神の力は罹患した後、はっきりと現れるのです。神の力と栄光をクリスチャンは感染して現すのです。神は愛する者を訓練し、苦難と困難の中で守られ、触れてくださり、栄光を現されるのです。

 私たち神を信じる者に常に問われるのは、神は自分のための魔除けや御利益をもたらすために信じているのかと言うことです。ある意味、困難にあって「自分は神から見捨てられた」、とか「沈黙して答えて下さらない」と思うのは、自分が神となり、神を自分の思う通りに従わせようとしているからです。それを高ぶりと申します。そうではなく、私たちは自分に死に、死んで初めて神の証人となるのです。

 これからイギリスの北アイルランドで、今回のコロナウィルスに罹患した、ある牧師のFaceBookビデオを観ていただこうと思います。重要なことは、この牧師が体験された言葉だからこそ、百や千の言葉に優って私たちの心を捉えると言うことです。罹患したからこそ、生きた神の証し人、証人となったのです。

2020年4月12日 (日)

イエスの復活

Ⅰコリント 15章3-6節   【新改訳2017】

 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 約二千年前、主イエス様がよみがえられたことを祝う日が来ました。教会暦で唯一の移動祝祭日です。よみがえりに関して、聖書には七つの生き返ったという記事があります。しかしイエス様の甦りはこれらの七つとは、全く別物であって、空前絶後の出来事でした。このよみがえりを、今朝はリアリティを持って信じることを考えてみたいと思います。

 まずイエス様のよみがえりは、人の手に依らなかったものです。次によみがえった体は、まったく異なった、不死にして超自然的な御霊の体でした。御霊の体・・・それがどれほど人の理解を超えたものであったか、その姿を見た弟子たちがいかに狼狽し、なかなか信じられなかったかを見ていきましょう。

 弟子たちはよみがえりをあらかじめ、幾度も聞いていました(マタイ16:21、17:9・23、20:19、26章:2)。それがいざ現実にとなると、なかなか信じることが困難だったのです。
 女たちが日曜日の朝、最初に行きましたが、よみがえりを期待してではなく、正式な葬りの準備をするためでした。マグダラのマリヤは空の墓を見ても、誰かが遺体を移動したとしか思えませんでした。マリヤの報告を聞いても、弟子たちは信じることができませんでした。ただヨハネだけが、空の墓を見て即座に信じたのです。

 あまりにも弟子たちが信じようとはしないので、その夜主は、弟子たちの前に現れて、信じようとはしなかった頑なさをお責めになりました。しかしそれでも弟子たちは、幽霊だと思ってしまったようなので、イエス様はご自分の手や足、脇を触ってみなさいと語られ、彼らの目前で食事を摂られました。御霊の体の主を前にしても、弟子たちはこれほど信じることができなかったのです。
 イエス・キリストのよみがえりの仕上げは、五百人の前に現れることでした。これだけ大勢の人が同じ情景を同時に見て、全員が同時に幻や夢を見たと否定することは不可能です。つまり、イエス様のよみがえりは、それが事実であったと信じるしかありません。

 この時、弟子たちはまだ聖霊のバプテスマを、受けてはいませんでした。つまり人間的な判断しかできなかったのです。しかし今私たちは、聖霊によって、命に優るこの大いなる希望を信じ、実際に得ています。イエス様のよみがえりを真に、リアルさを持って信じるなら、どんな困難も、たとえコロナウィルスによって命が脅かされようとも、揺り動かされることはないのです。最も大切なこと、それは私たちはよみがえりの永遠のいのち、その証人であり、世に打ち勝つということです。

2020年4月 5日 (日)

伝道と証し

使徒 1章8節   新改訳2017
   
主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

 学生運動に挫折し、悔い改めて二十歳でバプテスマを受けた時、その純粋な喜びもありましたが、それと同時に、福音をまだ知らぬ同胞へ伝道する使命をも強く感じたことを覚えています。実際、かなりの長い期間、ついここ数年までそのように思っていました。このことは間違ってはいません。ローマ10:17で「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とある通りです。

 ただし、「あれっ」と気づかされることがあります。それが本日の聖書箇所使徒1:8です。ここには「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」とあり、伝道ではなく、<証人witnesses>とあるのです。証人ならば第一に信仰の告白者であり、信仰の実を結び実らせていることを証明する存在なのです。つまり証人になるには、実を結ばせる聖霊の力なくしてはできないことで、それが使命だと言っているのです。

 しかし伝道とは、知的な内容より、神から受けた恵みの事実を証人と証しすると言う核心的な内容であることをこの言葉は意味します。つまり、人が単に生活上のあれこれを神の恵みとして見なすことも良いのですが、それだけではなく、ポイントは神が人と交わり、その人に言葉をもって語られ、人が神を愛し、これに聞き従って歩むことの恵みが証となります。それは人知を超えた恵みであり、まさに生ける神の実際の証しをすることになります。自分の罪性、つまり罪深さ、弱さを語り、これに対する神の愛と驚くべき恵みを語るのです。その意味で預言はもう一つの聞き従う典型的な証しになります。

 つまり伝道とは自分のことを証しするのではなく、神のことを証しするのです。聖霊の実は九つあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。その際には自分は死んでいなければなりません。そこにいささかでも誇る自分が含まれないように、心から祈りましょう。

 

 

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