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2020年5月

2020年5月31日 (日)

渇く人

ヨハネ 7章37-38節   【新改訳2017】

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 本日はペンテコステです。さて聖霊降臨日である本日のテーマですが、聖霊という霊的な満たしに飢え渇いている人は、本人にはそうは思えていないでしょうが、実は幸せになれる可能性が大きい人なのです。逆に渇いていない、そこそこ今の生活に満足しているクリスチャンライフを送っておられる方に、永遠につながる平安や喜びは遠いのです。

 自分自身に罪深さを認め、その癒やしと満たしを求める渇きがある方、神はそのままにせず、通される道はあるでしょうが、やがて必ず答えてくださる、あわれみ深い方であることを私は知っています。探し求めたその先には、やがて神の真の祝福を見出されることでしょう。しかし渇きのない人には、それがありません。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのです。

  さて今一度、聖書での「渇く」この意味を探ってみましょう。イスラエルのパレスチナ地方は空から見ますと、東に広大なアラビア砂漠があり、乾期になるとそこからの熱風に見舞われる地域です。この期間は雨が降らず、ほとんど半砂漠地帯となります。この乾燥の厳しさは、私たち日本人には想像が難しいほどです。
 このパレスチナではヨルダン川以外はオアシスか井戸しかなく、大半はワディと呼ばれる涸れ川となり、半年以上も強烈な乾期が続きます。大地は干からびていますから、11月からの雨期に雨が降ると、大地を潤すことなく、たちまち洪水のようになります。ですから一年中流れの尽きない川とは、貴重な命の源であり、たとえようもない価値を持ちます。

 この文脈でヨハネ7:38「生ける水の川」とイエス様が言われたことは、次のような意味があるようです。一つは罪が無かった時代のエデンの園の回復であり、またそれは黙示録22:1でいう「いのちの水の川」という、天の国の実現成就を現したことであること。神イエスの十字架なしに私たち人間の罪は贖われず、助け主聖霊様も人が罪あるままでは内住が困難である。この地では水はいのちそのものであった。こうしてみると、イエスの十字架がすべての土台であったことがわかる。神の愛が十字架を通して現されたのだ。また水は一度で良いというものではなく、飲み続けなければならないものだ。それはふだんの神との交わりの大切さ、祈りの恵みと言うものを指している。それゆえに、私たちは常に渇くのだ。

 十字架によって私たちが神の愛を知るなら、常に祈りを通して、いのちの水の川から霊的な祝福、涸れない恵みを受けて行こう。受ければ受けるほどますます神の偉大さを讃美し、自身を謙遜にしてくださる恵みである。

2020年5月24日 (日)

信じる者は永遠のいのちを持つ

ヨハネ 6章47節   新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

 先ほど使徒信条を交読しましたが、私たちの東京アンテオケ教会ほか、カトリック教会まで含めて、ほとんどのキリスト教会は使徒信条を自分たちの教会の信仰告白にしています。また〇〇教団とか単立〇〇教会と、それぞれ特徴を持った教会がたくさんありますが、実際には教会は一つしかなく、このことを普遍的キリスト教会と言ったりします。

使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン

 ですから使徒信条は聖書ではありませんし、聖書以上のものではありえませんが、本当の教会であるかどうかのバロメーターになるものです。どうしてでしょうか。それは三位一体を明確に現しているからです。つまり、極めて初期の段階から三位一体を否定する異端は、イエス・キリストを最高度の人物のように扱いながら、どうしても人間としてしか見ようとしなかったことをあらわしています。実際、現代でも「エホバの証人」「モルモン」などは、イエスが神であることを認めません。これは二千年間も続いているサタンの攻撃なのです。

 しかし、イエス・キリストが神であることを信じることが、使徒の時代から受け継がれてきた普遍的な教会の信仰であり、それは、イエスが聖霊による処女降誕であること、十字架で死んで復活し、今もなお神の右に座しての審き主であることを信じることでした。

  1世紀、140年頃のローマ信条に使徒信条は由来があり、数百年かけて現在の形になりました。つまり使徒の信仰をもっとも表していると言う意味で使徒信条と名づけられているのです。またこれはおそらく使徒の時代直後からずっとバプテスマの前に、査問会のような信仰を問う場において投げかけられる問いでもあったとされています。

 ですからみなさん、謙遜に謙虚になりなさい、賜物の働きは、注がれば注がれるほど人を畏れさせ、謙虚にさせる。リバイバルの大いなる注ぎの前に、神のものを自分のものにしないように、心からの徹底した謙虚さが前提です。高慢さというものは最大の敵です。私たちは自分の霊、魂の状態に目を醒ましていなければなりません。

2020年5月17日 (日)

ふさわしくない者

マタイ 10章38節   【新改訳2017】

 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 人はどのようにして神にふさわしくなれるのでしょうか。もし、自分の力でそれが可能だと思っていたとしたら、私の見方ではある意味、自分が分かっていない迂闊な人か、あるいは思い上がっている人なのと思ってしまいます。けれども多くの方にとっては、聖を前にして我が身の至らなさ、醜さに苦しんでおられるのが実状ではないでしょうか。しかし神が聖としてくださることはみ心ですから、あきらめない限り、時が来た時に成就し、喜びに変わるのです。<1テサ5:23,1テモ4:5,ヘブル10:10>

 では自分が御国にふさわしくないと思っているままで良いのでしょうか。断じて違います。ここが大切分かれ目になります。私たちは必ず、神を愛し、天への希望が本物なのか、忍耐が試されるのです。早々にあきらめる人は、もともと良い地ではなかったのです。これを思う時、わたしは「富める若人」の話を思い出します<マタイ19:16>。 この青年は富と家柄に恵まれていただけでなく、「永遠のいのち」に深く関心を持つ超まじめ青年でした。その彼でも「自分が永遠のいのちを受けるにふさわしくない」ことを知っており、苦しんでいたのです。そしてこれが最大の問題ですが、彼はこれまで以上に「どんな良いことをすればよいのでしょうか」と、なおかつ自分の行う力に希望を持っていたのでした。

 イエス様は彼の模範的で真摯な生活を認め、慈しんで言われました。「あなたの全財産を貧しい人に施して天に宝を積み、その上で、わたしに従って来なさい<マタ19:21>」と。これを聞いた青年は、それが出来ないので悲しく立ち去ってしまいます。これは行いでは不可能であることを示しています。
 これを聞いていた弟子たちが「それでは誰が救われるのでしょう」と疑問を持つのです。イエス様が厳かに語られたのは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます<マタ19:26>」。これが信仰だと私は思います。つまり信仰とは自分に対する行いへの希望ではなく、与えられることへの信頼であり、確信なのです。

 このように私たちは、自分の力で実を結ぶことは出来ないのですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のたとえの通り、ますます神に対して謙虚になるしかありません。しかし一方で、まるで自分で得たもののように誇る人たちも出てくることでしょう。それぞれの実が見分けのポイントになります。それは神に全ての栄光を帰す謙虚さです。

 このような視点で,自分の罪に気づき、己がふさわしくないと悔い改めを歌ったアメージング・グレイスに私は感動します。日本語では聖歌「驚くばかりの」を共に讃美しましょう。この曲には天国への道が開かれています。

2020年5月10日 (日)

新しい皮袋

ルカ 5章37節  新改訳2017

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。

「新しい皮袋」聖書由来のことわざには「目から鱗」「豚に真珠」と本日のこの「新しい酒は新しい皮袋に」とあります。但し聖書から正しく理解するならば、かなり意味が異なって来ます。
 まずこのたとえは断食についてのパリサイ人の質問から始まりました。パリサイ人たちはイエス様の前に陣取り、カペナウムでの中風の人の癒やし以来つきまとい、このような質問をして様子をうかがっていました。ですからこのたとえの、古い葡萄酒と古い皮袋とは何を指すかがポイントになります。

 パリサイ人らにとって、断食は<施し><祈り>に並ぶ重要な宗教的な行いでした。断食をしないイエス様について、バプテスマのヨハネの弟子たちですら疑問に思っていたのです。これは花婿として来られたイエスのメシア性を理解せず、古い律法の枠内でしか理解できなかった彼らの限界を示しているのです。イエスは十字架の血による新しい葡萄酒であり、律法の縄目を解き開き、天への道を開く預言の成就、花婿たるメシアでした。新しい皮袋、新しい律法としてイエス様の説く福音を受けなければならないのです。

 しかしパリサイ人たちは神のことばをタルムード(口伝律法とその解説)などの人間的な理解に置き換え、これを金科玉条とし、ただ形式的に守ろうとするだけであって、イエスの神性、預言の成就をないがしろにしました。ですから古い酒と古い皮袋とは彼等のことであり、キリストの福音を受け入れられずに滅ぶたとえなのです。

 イエスの到来はメシアの時代の到来、喜びの婚宴の始まりでした。悟れなかったパリサイ人は、この場で何か衝突は起こすことはありませんでした。しかし、一言で言えばこれはイエス様の宣戦布告です。国の権力者たちと、民衆しか後ろ盾がない田舎出の一人のラビとその弟子たちの戦い、その後、すべては神のロードマップ通りに進んで行くのでした。

 新しい葡萄酒は発酵し続けます。今日的な課題として、私たちがいつまでも新しい葡萄酒を受け続け、その入れ物となるためには何が必要でしょうか。神はいつの時代でも不変であり、永遠です。それならば私たちに必要なことは「新生」です。私たちは罪深く、自己中心であって、自分の力で神に自分を捧げたり、聖化にあずかることは出来ません。己の真実を知って悔い改め、また神の絶大な偉大さ、その愛とあわれみを知った時、飢え渇きを持って新生を待ち望むことができます。神によって与えられる新しい霊と、その聖霊が自分の主として従い、愛し、進んで神の御心だけを行う者として、新しい人生を歩む者とされましょう。まだの方は共に節に祈り求めましょう。新しき皮袋へと。

2020年5月 3日 (日)

9人はどこにいるのか

ルカ 17章11~19節   【新改訳2017】

11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 本日の聖書箇所は、イエス様が十人のツァラト(重い皮膚病、以前は癩病と訳す)で苦しんでいた人を全員癒やされた記事です。しかし大喜びで神をほめたたえ、感謝しに戻って来たのは、神を知るイスラエル人ではなく、異邦のサマリヤ人でした。イエス様の「(残りの)九人はどこにいるのか」と嘆きが心に響きます。

 この九人はこれまで社会から隔離され、差別され続けた人生でした。十人にとって癒やしは、どんなに喜びであったことでしょうか。しかし九人にとってはそれが信仰に結びつきませんでした。いわば神への忘恩の徒になったのです。どんなに癒やされても、罪が赦され、救われなければ、必ず来る滅びからは免れません。

 私たちの群れの大きな特徴は、1テサ5:18<すべてのことにおいて感謝しなさい>にある通り、どんな悪いことでも感謝する信仰です。ですから交通違反で切符を切られても「か、か、感謝しま~す」、仕事で失敗し上司から注意されても「か、感謝します」と告白します。しかし多くの場合、感謝の喜びではなく、引きつった顔で、ただ口先だけで言っているのではないでしょうか。もちろん、呪いの言葉や腹いせの言葉を吐くよりははるかによいでしょう。しかし神は心を見られます。その神の御前に立ち、失敗であれば先ずそれを悔い改め、その次に「このことが赦されたこと」に対し、その御心を心から感謝する者として、神への信頼と信仰を告白する者でありたいと思います。

 では感謝とはどういうものか、今一度振り返ってみましょう。故マーリンさんの著書「獄中からの賛美」に「サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたち(クリスチャン)に対して、指一本触れることができない」(p120)という下りがあります。ただしこれは、神に自分を完全に献げていること、つまり神のものとされている信仰が前提になります。マーリンさんのことばは、聖書のヨブ記やローマ8:28からも正しいのです。つまり世的な基準や、自分の人間的な判断では、どうみても悪いこととしか思えないことであっても、それは神が「良き計画」として許されたことです。それ故にそれを受ける私たちは、どんなに悪いこととであっても、心から感謝できるはずですし、実際、喜び感謝するのです。

 神は人の思いを超えた、はるかに素晴らしい最善しか、おできになれない方です。実際私の体験でも神が許され、なさったことは、何もかもが素晴らしいことでした。ですからどんなことにでも心から感謝し、喜び、また迫害する者のために祈り、その祈りの力を求め、まず自分を無にし差し出すならば、神は最善に変えてくださるのです。

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