ふさわしくない者
✝マタイ 10章38節 【新改訳2017】
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
人はどのようにして神にふさわしくなれるのでしょうか。もし、自分の力でそれが可能だと思っていたとしたら、私の見方ではある意味、自分が分かっていない迂闊な人か、あるいは思い上がっている人なのと思ってしまいます。けれども多くの方にとっては、聖を前にして我が身の至らなさ、醜さに苦しんでおられるのが実状ではないでしょうか。しかし神が聖としてくださることはみ心ですから、あきらめない限り、時が来た時に成就し、喜びに変わるのです。<1テサ5:23,1テモ4:5,ヘブル10:10>
では自分が御国にふさわしくないと思っているままで良いのでしょうか。断じて違います。ここが大切分かれ目になります。私たちは必ず、神を愛し、天への希望が本物なのか、忍耐が試されるのです。早々にあきらめる人は、もともと良い地ではなかったのです。これを思う時、わたしは「富める若人」の話を思い出します<マタイ19:16>。 この青年は富と家柄に恵まれていただけでなく、「永遠のいのち」に深く関心を持つ超まじめ青年でした。その彼でも「自分が永遠のいのちを受けるにふさわしくない」ことを知っており、苦しんでいたのです。そしてこれが最大の問題ですが、彼はこれまで以上に「どんな良いことをすればよいのでしょうか」と、なおかつ自分の行う力に希望を持っていたのでした。
イエス様は彼の模範的で真摯な生活を認め、慈しんで言われました。「あなたの全財産を貧しい人に施して天に宝を積み、その上で、わたしに従って来なさい<マタ19:21>」と。これを聞いた青年は、それが出来ないので悲しく立ち去ってしまいます。これは行いでは不可能であることを示しています。
これを聞いていた弟子たちが「それでは誰が救われるのでしょう」と疑問を持つのです。イエス様が厳かに語られたのは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます<マタ19:26>」。これが信仰だと私は思います。つまり信仰とは自分に対する行いへの希望ではなく、与えられることへの信頼であり、確信なのです。
このように私たちは、自分の力で実を結ぶことは出来ないのですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のたとえの通り、ますます神に対して謙虚になるしかありません。しかし一方で、まるで自分で得たもののように誇る人たちも出てくることでしょう。それぞれの実が見分けのポイントになります。それは神に全ての栄光を帰す謙虚さです。
このような視点で,自分の罪に気づき、己がふさわしくないと悔い改めを歌ったアメージング・グレイスに私は感動します。日本語では聖歌「驚くばかりの」を共に讃美しましょう。この曲には天国への道が開かれています。
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