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2020年5月 3日 (日)

9人はどこにいるのか

ルカ 17章11~19節   【新改訳2017】

11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 本日の聖書箇所は、イエス様が十人のツァラト(重い皮膚病、以前は癩病と訳す)で苦しんでいた人を全員癒やされた記事です。しかし大喜びで神をほめたたえ、感謝しに戻って来たのは、神を知るイスラエル人ではなく、異邦のサマリヤ人でした。イエス様の「(残りの)九人はどこにいるのか」と嘆きが心に響きます。

 この九人はこれまで社会から隔離され、差別され続けた人生でした。十人にとって癒やしは、どんなに喜びであったことでしょうか。しかし九人にとってはそれが信仰に結びつきませんでした。いわば神への忘恩の徒になったのです。どんなに癒やされても、罪が赦され、救われなければ、必ず来る滅びからは免れません。

 私たちの群れの大きな特徴は、1テサ5:18<すべてのことにおいて感謝しなさい>にある通り、どんな悪いことでも感謝する信仰です。ですから交通違反で切符を切られても「か、か、感謝しま~す」、仕事で失敗し上司から注意されても「か、感謝します」と告白します。しかし多くの場合、感謝の喜びではなく、引きつった顔で、ただ口先だけで言っているのではないでしょうか。もちろん、呪いの言葉や腹いせの言葉を吐くよりははるかによいでしょう。しかし神は心を見られます。その神の御前に立ち、失敗であれば先ずそれを悔い改め、その次に「このことが赦されたこと」に対し、その御心を心から感謝する者として、神への信頼と信仰を告白する者でありたいと思います。

 では感謝とはどういうものか、今一度振り返ってみましょう。故マーリンさんの著書「獄中からの賛美」に「サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたち(クリスチャン)に対して、指一本触れることができない」(p120)という下りがあります。ただしこれは、神に自分を完全に献げていること、つまり神のものとされている信仰が前提になります。マーリンさんのことばは、聖書のヨブ記やローマ8:28からも正しいのです。つまり世的な基準や、自分の人間的な判断では、どうみても悪いこととしか思えないことであっても、それは神が「良き計画」として許されたことです。それ故にそれを受ける私たちは、どんなに悪いこととであっても、心から感謝できるはずですし、実際、喜び感謝するのです。

 神は人の思いを超えた、はるかに素晴らしい最善しか、おできになれない方です。実際私の体験でも神が許され、なさったことは、何もかもが素晴らしいことでした。ですからどんなことにでも心から感謝し、喜び、また迫害する者のために祈り、その祈りの力を求め、まず自分を無にし差し出すならば、神は最善に変えてくださるのです。

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