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2020年6月

2020年6月28日 (日)

キリストに生きる

  ✝ピリピ 1章20~21節  【新改訳2017】

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
 人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)

  「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
 みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。

 妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。

2020年6月21日 (日)

偽り

 Ⅰペテロ 5章5節   【新改訳2017】
 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 私たちは神を信じています。しかし神の弟子となり、従う者となっている人は極少数ではないでしょうか。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を負って」のことば通りに、自分は常に自分を捨てていると言い切れる方がどれほど居るのかと同じだからです。

 キリストの弟子は無私でなければなりません。自身が神への捧げものであり、神のものになっているはずです。世の霊と力に対抗し、戦い、肉体の死に至るまで神を信頼し、その勝利を証することがクリスチャンの生き方であり、どこまでも神に栄光を帰し、謙遜であるはずです。しかし現実には全く不十分なクリスチャンがほとんどであり、天国行きの切符をゲットしたとして安心しきって、世人と変わらない生活を送っているだけなのです。クリスチャンだと言いながら、嫉妬や肉欲に支配されているならば、その方は真のクリスチャンではありません。物欲、出世欲、気づきにくい所属欲などに心を奪われていては、神の目から見るなら、悪霊の実を実らせているのです。

 私もそうでしたが皆さんも、初めからこれらに勝つことは出来ないと諦めているおられるのではないでしょうか。神の愛も力も知らないので、そう思われるのです。どうして神の力がその人に現れないのでしょうか。聖霊さまがおられないか、またはあまりにも小さな存在なので、聞けないのです。神をそのように扱う救い難い自己中心の霊というか、高慢さが内実なのです。それに目をつむって、自分の現状を正当化しているのです。聖霊なる神をいつまで侮り、聞かず、悲しませ続けるのでしょうか。

 自分より他の人がすべて優っているといつも思いましょう。逆に自分が人より優っていると思うなら、大いに害があるのです。自分が蔑まれ、落とされるなら主の受難を偲び、与れたことを喜びましょう。どうして怒りの、妬みの感情が湧くのでしょうか。自分をよく知る者は、自分の無価値さを知っています。真の平安は、へりくだりの中にあります。

 残念ながら謙遜には自分の力でなれません。神の助けが必要であり、それなしには不可能です。ですから私たちが謙遜し、へりくだるなら、ますます神に栄光を帰し、へりくだる者となるのです。神の平安と愛の中、自分のことなど本当に小さい、わずかなことと知るのです。そこで初めて自分から解放された平安の恵みが訪れているのです。

「神は高ぶるもには敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)です。

2020年6月14日 (日)

一つになりたい-may be one-

ヨハネ 17章22-23節        【新改訳2017】

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  先ほど特別讃美曲「通り良き管として」で「あなたと一つになりたい」という歌詞がありました。英語ではmay be oneです。ちょっと驚きました。直訳調で言えば「一つになるため」ではなく「一つになれるかも知れない」って、期待的なんですね。
 この章はイエス様がこれから十字架に架かり、その先の復活もペンテコステも未だという段階です。世を去るにあたって、イエス様が最も心しておられたことは「弟子たちが一つになる」ことでした。何と一つになることでしょうか。それは弟子たちが団結して一つになることではなく、聖霊の神の支配によって、一つの御霊のものとなることだったはずです。なぜならそのためにこそ、これから十字架の御業を成し遂げ、復活とペンテコステによって最終的に「一つになる」ことが完成するからです。

 見逃せない点は、ペンテコステが信じた者における聖霊のバプテスマであったことです。つまり聖霊のバプテスマを受けていなければ、どんなに神を信じていようと、一つにはなれないのです。今日の教会のほとんどの問題が、この一点にあると言って良いでしょう。かつてキャサリン・クールマンはそのミッションスタッフについて、聖霊のバプテスマを受けていないスタッフとは、共に仕事をすることは出来ないと明言しました。それは当然なことであり、今も同じです。

 ですから私たちは主イエスが祈ってくださったように、聖霊の内住に留まらず、聖霊のバプテスマを求めましょう。問題は聖霊のバプテスマの認定です。明確な体験があることが目安になります。自分が受けたかどうか分からないような聖霊のバプテスマがあるでしょうか? また神さまとの体験をされた方で、はっきりしない方、その方は祈り求めてください。may beですが、必ず与えられるはずです。

 聖霊のバプテスマは、九つある聖霊の賜物以前に新生を伴い、その聖霊の実を実らせます。私は賜物よりも実の方を重く見ます。祈りましょう。受けた人はますます注がれ続けられるように、受けていない人は荒野でマナを求めるように、あきらめず熱心に祈り求めましょう。神はあわれみ深い方なのですから。

2020年6月 7日 (日)

生き返ったラザロ

ヨハネ 11章43節   【新改訳2017】
 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

 なぜすぐにイエス様は行かれなかったのでしょうか?まず押さえておきたいことは、ベタニアはエルサレム滞在時にはここを本拠としておられたほどのエルサレムから数kmの距離であって、イエス様にとって今や危険な所です。そのためかイエス様たちはヨルダン川の向こう、ペレアに滞在しておられました。その事情を知っていたか、あるいは慎みのためなのか、イエス様に送った使いでも、マルタたちは、危険な病状にも関わらず「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者(ラザロ)が病気です」とだけしか知らせませんでした。しかしそんな気遣いもイエス様はこの事態について逐一承知しておられ、神の栄光の計画に織り込み済みのことだったのです。
  聖書にはイエス様の三つを含め全部で七つの死人が生き返った記事があります。そのほとんどが死んだ直後のケースでしたが、このラザロの生き返りだけはまったく異なります。ラザロは死んで四日経ち、すでに腐臭ただよう状態だったからです。腐乱死体を再び生きた元通りにするとは、世界の歴史始まって以来、空前絶後の出来事です。マリアの処女の受胎と同様、どのような説明も不可能です。人は信じるか、信じないかのいずれかです。

 この生き返りは最大の祭りである過越の祭に集まって来た大勢の人々が見ることとなり(ヨハネ12:9)、イエス様の都への入場の際にはなつめ椰子の枝を手に手にもって「ホサナ」と叫ぶ、大群衆へと成長したのです。この事態は時の権力者たち祭司長やパリサイ人にとって、自分たちの権力基盤が崩壊するかどうかの瀬戸際に追い込むことになりました。

 それゆえ、どんな手を使ってでも、祭司長やパリサイ人はイエス様の存在を抹殺する緊急事態に追い込まれ、何があってもそうする決心に追い込まれたのでした。つまりラザロの生き返りはイエス様が神であることと、そのイエス様を殺そうとする決心を固めさせた二重の結果を伴ったという事になります。ラザロの生き返りは、神の時が満ちたことを現す出来事でした。生と命を完全にコントロールされているこの神を、私たちは信じているのです。私たちを愛して、永遠のいのちを十字架によって与えてくださった神を崇め、心から讃美しましょう。

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