キリストに生きる
✝ピリピ 1章20~21節 【新改訳2017】
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)
「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。
妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。
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