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2020年7月

2020年7月26日 (日)

聖霊とは

 ✝ ヨハネ 16章7- 8節   【新改訳2017】

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 イエス・キリスト様の公生涯を通じて、弟子たちはイエス様が共にいてくだされば絶対的な安心を得ていました。嵐が来ようと、どんな病人や障害がある人が来ようと、何千人の人が食する必要があろうと、さらに権威や権力に頼る人々が悪知恵やたくらみをしかけて来ようと、これらのすべての結果は、驚嘆と神への賛辞に終わったのでした。しかし三度目の過ぎ越しを迎え、そのイエス様が自ら居なくなると予告されはじめられ、従っていた弟子たちに不安が生じるのは当然でした。

 しかし主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる(ヨハ16:7)」と約束されたのです。その当座は理解できませんでしたが、実際そうだったのです。主はパラクレイトス(パラ=ご自分と同等の/クレイトス=助け主、慰め主)と呼ばれるもう一人の神、聖霊様を私たちに送って下さるために世に来られたのです。この神は三位一体の神ですが、私たちの内に住まわれることがおできになるのです。しかし神は」聖ですから、罪ある人には入れません。そこで神ご自身による購い、十字架の罪の赦しが必須だったのです。
 ここでハッキリしなければいけないことですが、罪とは何でしょう。人は本来善なる者として創造されましたが、一人の人、アダムによって、全人類が罪人となりました。皆さんは誰一人例外なく罪人であって、滅びの子なのです。しかしひとりの人の十字架を信じることによって、罪が赦され、聖霊様が住まわれる道が開かれたのです。つまり罪とはイエス・キリストを信じないこと、これが罪なのです。

 この聖霊なる神様とはどんなお方なのでしょうか。心しなければならないことは(神格と書けば誤解されますので)人格をお持ちであると言うことです。私たちが助けを求めて聖霊様に祈ったり、交わろうとするのも、もし人格をお持ちでなかったら機械や物に向かってすることになり、それこそ笑い話です。逆に人格をお持ちになるからこそ、人格の特徴である次の三つのこと…1聖霊の賜物を誰に賦与するかを決める(使徒15:28・16:6-7※しかしあくまでオーナーは聖霊様です)、2聖霊様は神のみ心を完全に知っておられる(1コリ2:10-11)ので、み心を教えてくださる、3さらに感情をもお持ちなので、私たち一人ひとりに悲しんでくださったり痛んだりしてくださる…・を忘れてはならないと思います。
 聖霊なる神は私たち一人ひとりの霊・たましいに親しく交わってくださり、決して見放されず、愛し尽くしてくださる驚くべき神です。何という恵みでしょうか。私たちはこの方と共に世に在って生きるのです。

2020年7月19日 (日)

聖霊

  民数記 11章29節   【新改訳2017】

モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

 モーセが民を導いた荒野の四十年は過酷な道でした。出エジプトの栄光はどこにあったのかと思われるほど、イスラエルの民は主なものだけでも十数度、数え切れないほど神とモーセに不平不満と反逆を繰り返しました。モーセは塗炭の苦しみを味わったのです。遂にモ-セは「主の民がみな預言者となり、主がかれらの上にご自分の霊を与えられると良いのに」と言いました。この時分け与えられたのは民の長老七十人でしたが、千五百年後に、このモーセの言葉は現実になりました。神の子イエス・キリストを信じる者は、そのすべての罪が十字架によって赦されたからです。
 大事なことは、十字架で罪が赦されたのは、聖霊を受けるためであったと言う事です。聖霊は罪ある中に住むことは不可能です。義にして聖なる存在だからです。信じる者に内住される聖霊は神であり、真理の御霊であり、パラクレイトスと呼ばれる助け主、慰め主です。真理の御霊は罪について、義について、さばきについて私たちに解き明かしてくださるのです。

 さて、御霊の満たしと聖霊のバプテスマとは混同される面がありますが、聖書では聖霊のバプテスマを受けているはずのパウロが、「聖霊に満たされ」て魔術師バルイエスをにらみつけ、しばらく盲目になるわざを行っています。これらから聖霊のバプテスマと言う明確な個人的な体験後にも、聖霊による満たしは適宜起っているのです。私たちの群れでは「聖霊のバプテスマとは聖霊の満たしの最初の現れ」と定義しています。聖霊の満たしによって起こることは、もちろん神の働きであり、顕著な神の栄光と実りをもたらすものです。神に不可能はないからです。逆に聖霊に満たされた働きでありながら、何だか訳の分からないものになったということはあり得ません。それは神からのものではありません。

 さて聖霊は真理の御霊、光ですから、隠れた人の罪を明らかにします。その結果、自分の真の姿=罪そのものの自分が明らかになり、己ではなく神に全ての希望を見出すようになります。つまり自分を捨て、神に自分を委ね、神に聞き従うための献身という強い動機をもたらします。聖霊のバプテスマや満たしを受けたと言いながら、この真理の御霊の働きが実として現れないことはなく、その場合は今一度、強く求め続けるスタートラインに戻る必要があるでしょう。聖霊の満たしは、それほど熱心に強く求める値打ちのあるものです。

2020年7月12日 (日)

とげの付いた棒

使徒 26章14節   【新改訳2017】

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 パウロが語られたように、牛などの家畜に使う、とげの付いた棒を人が蹴れば痛いのは当然です。それに類したことを、私たちクリスチャンが祈りや願いの中でしていないでしょうか。それは痛い結果となります。

 実は今朝、私は癒しを求めて祈っておりました。七十近い高齢者になったせいでしょうか、思ってもみなかった故障というか、次々と課題が体に出てきました。例えば目の乾燥や緑内障、昔からですが鼻づまりや原因不明の鼻アレルギー、崩壊寸前の歯並び。耳鳴りも時々登場するなど、頭部は課題のオンパレードです。そこで、それらが癒やされるよう洩れなく祈り続けていましたら、最後に何か大切な所を忘れていたような気がしたのです。「そうだ、頭の中味、脳のことを祈っていなかった」と気づきました。おまけのように「主よ、私の霊、魂があなたに忠実なものとなりますように。どうか御心第一にして歩めるよう霊を増し加え、罪を癒やし、回復をを与えてください」と祈りました。するとすぐに<一番最後が頭の中味、霊ですか?>と示しがありました。「順番が逆でしょう」と言う叱責であると分かりました。そうです、順番、何を第一とするのか、神さまに対しては順番(プライオリティ)が大切なのです。後は添えて与えられる(✝マタイ6:33)からです。

 癒やしの祈りは否定しません。しかしそれが単に「目を、鼻を、耳を」と願うことは、自分のために神を使っているのではないでしょうか。自分本位の肉的な祈りになっているのだとしたら、それは聞かれないという痛い目に遭うことになります。
 そもそもクリスチャンの病は、それを神が許されているということを忘れてはならないでしょう。それなのに「神よ、どうしてこの病なんだ、神なら癒してくれることが御心のはずだ。早く直してくれ」とばかりに祈っています。これは不遜な、神に聞かれるはずのない祈りです。

 その前に、先ず神に自分の全てを神に捧げ委ね、全てを感謝し、状態を省みましょう。また御心を求め祈った後ならば、それがたとえ死に至るものであっても、感謝し、最善として受け入れます。私たちはすでに主のものとして渡されているのですし、血肉の体は必ず滅ぶものだからです。
 こうして今許されている病、症状は神が許されていること。それゆえに順序を間違えて祈ってはならないことに気づかされたのです。トゲのある棒を蹴るのではなく、至高の神の招きに応じ、どんな状況も徹底的に感謝することがポイントです。人の目には益に見えなくても、計り知れない神の祝福の計画があります。神を信頼します。

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

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