愛の苦しみ
✝ 詩篇 105篇17~19節 【新改訳2017】
主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。
先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。
ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。
キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。
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