聖霊
✝ 民数記 11章29節 【新改訳2017】
モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
モーセが民を導いた荒野の四十年は過酷な道でした。出エジプトの栄光はどこにあったのかと思われるほど、イスラエルの民は主なものだけでも十数度、数え切れないほど神とモーセに不平不満と反逆を繰り返しました。モーセは塗炭の苦しみを味わったのです。遂にモ-セは「主の民がみな預言者となり、主がかれらの上にご自分の霊を与えられると良いのに」と言いました。この時分け与えられたのは民の長老七十人でしたが、千五百年後に、このモーセの言葉は現実になりました。神の子イエス・キリストを信じる者は、そのすべての罪が十字架によって赦されたからです。
大事なことは、十字架で罪が赦されたのは、聖霊を受けるためであったと言う事です。聖霊は罪ある中に住むことは不可能です。義にして聖なる存在だからです。信じる者に内住される聖霊は神であり、真理の御霊であり、パラクレイトスと呼ばれる助け主、慰め主です。真理の御霊は罪について、義について、さばきについて私たちに解き明かしてくださるのです。
さて、御霊の満たしと聖霊のバプテスマとは混同される面がありますが、聖書では聖霊のバプテスマを受けているはずのパウロが、「聖霊に満たされ」て魔術師バルイエスをにらみつけ、しばらく盲目になるわざを行っています。これらから聖霊のバプテスマと言う明確な個人的な体験後にも、聖霊による満たしは適宜起っているのです。私たちの群れでは「聖霊のバプテスマとは聖霊の満たしの最初の現れ」と定義しています。聖霊の満たしによって起こることは、もちろん神の働きであり、顕著な神の栄光と実りをもたらすものです。神に不可能はないからです。逆に聖霊に満たされた働きでありながら、何だか訳の分からないものになったということはあり得ません。それは神からのものではありません。
さて聖霊は真理の御霊、光ですから、隠れた人の罪を明らかにします。その結果、自分の真の姿=罪そのものの自分が明らかになり、己ではなく神に全ての希望を見出すようになります。つまり自分を捨て、神に自分を委ね、神に聞き従うための献身という強い動機をもたらします。聖霊のバプテスマや満たしを受けたと言いながら、この真理の御霊の働きが実として現れないことはなく、その場合は今一度、強く求め続けるスタートラインに戻る必要があるでしょう。聖霊の満たしは、それほど熱心に強く求める値打ちのあるものです。
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