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2020年7月12日 (日)

とげの付いた棒

使徒 26章14節   【新改訳2017】

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 パウロが語られたように、牛などの家畜に使う、とげの付いた棒を人が蹴れば痛いのは当然です。それに類したことを、私たちクリスチャンが祈りや願いの中でしていないでしょうか。それは痛い結果となります。

 実は今朝、私は癒しを求めて祈っておりました。七十近い高齢者になったせいでしょうか、思ってもみなかった故障というか、次々と課題が体に出てきました。例えば目の乾燥や緑内障、昔からですが鼻づまりや原因不明の鼻アレルギー、崩壊寸前の歯並び。耳鳴りも時々登場するなど、頭部は課題のオンパレードです。そこで、それらが癒やされるよう洩れなく祈り続けていましたら、最後に何か大切な所を忘れていたような気がしたのです。「そうだ、頭の中味、脳のことを祈っていなかった」と気づきました。おまけのように「主よ、私の霊、魂があなたに忠実なものとなりますように。どうか御心第一にして歩めるよう霊を増し加え、罪を癒やし、回復をを与えてください」と祈りました。するとすぐに<一番最後が頭の中味、霊ですか?>と示しがありました。「順番が逆でしょう」と言う叱責であると分かりました。そうです、順番、何を第一とするのか、神さまに対しては順番(プライオリティ)が大切なのです。後は添えて与えられる(✝マタイ6:33)からです。

 癒やしの祈りは否定しません。しかしそれが単に「目を、鼻を、耳を」と願うことは、自分のために神を使っているのではないでしょうか。自分本位の肉的な祈りになっているのだとしたら、それは聞かれないという痛い目に遭うことになります。
 そもそもクリスチャンの病は、それを神が許されているということを忘れてはならないでしょう。それなのに「神よ、どうしてこの病なんだ、神なら癒してくれることが御心のはずだ。早く直してくれ」とばかりに祈っています。これは不遜な、神に聞かれるはずのない祈りです。

 その前に、先ず神に自分の全てを神に捧げ委ね、全てを感謝し、状態を省みましょう。また御心を求め祈った後ならば、それがたとえ死に至るものであっても、感謝し、最善として受け入れます。私たちはすでに主のものとして渡されているのですし、血肉の体は必ず滅ぶものだからです。
 こうして今許されている病、症状は神が許されていること。それゆえに順序を間違えて祈ってはならないことに気づかされたのです。トゲのある棒を蹴るのではなく、至高の神の招きに応じ、どんな状況も徹底的に感謝することがポイントです。人の目には益に見えなくても、計り知れない神の祝福の計画があります。神を信頼します。

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