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2020年8月

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月23日 (日)

キリストのために生きる

Ⅱコリ 5章15節   新改約2017

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 1863年、南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグで、信仰者でもあったリンカーンはこの戦いが、平等の理念を問うた尊い犠牲であったことを強調し、有名な「人民の、人民による、人民のための政治」を演説しました。この思想は現日本国憲法にも生かされています。そして今私は示されて、「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を目指す教会の目標として掲げたいと思います。すべての人のために死んでくださったキリスト、キリストの十字架によって与えられた新しいいのち、それは神の栄光とそのみ体である教会のためにのみ用いられるべきものであると信じるからです。

 イエス・キリストを信じた者は、自分の体がすでに自分のものではなく、神のものとなっています。なぜなら聖書1コリ3:16や2コリ6:16で明らかなように、私たちの体は十字架によって贖われ、買い取られているからです。しかし私たちの霊・たましい・心はそうではありません。これは私たち自身のものです。そうでなければ神を主と告白する信仰に何の意味があり、審きがどうしてあるのでしょうか。

 霊・たましいが自分のものであれば、私たちはどうすれば良いのでしょうか。与えられたその意思を持って、神に自分を捧げること、み心を行いたいと願い祈ることですが、最も大切なことはそれらが神を愛する心から発していることです。主イエスは言われました。
「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:30)でしたし、「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。・・・中略・・・愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラ5:13)

 そこで私たちは最初に述べた「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を具体化するために、より一層神を愛して、そのすべてが神によって推し進められるよう祈って参りましょう。神に不可能はないのです。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。

 

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