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2020年9月

2020年9月13日 (日)

神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年9月 6日 (日)

神の救い

エペソ 1章3-5節   新改約2017

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 クリスチャンになり、永遠のいのちを得ることを「救われる」と称します。神学的な意味での救いの取り扱いを救拯(きゅうじょう・すくい)論と言います。その中心にはカルヴァンに代表される予定説がありますが、これに対してアルミニウス主義というものがあります。両者を誤解を恐れずに言えば、人間はひどく堕落してしまったので、もはやがんばっても救われることはできない、救いはただ神の恵みとあわれみという、無条件の選びによる、というのが予定説です。これに対し、人間側の努力や義の行いも神は考慮してくださるだろうというのがアルミニウス主義の見方です。 

ところがこの両者の対立も、自由主義神学というリベラルな神学が台頭して来たため、結束して立ち向かう必要に迫られて、現在ではかなりうやむやになっているのが現状です。リベラルとは聖書がすべて神の言葉であることを否定し、人間の合理的な知性を解釈に生かすもので、エキュメニカルなグループに多く見られる神学です。救拯を論じるどころではない、聖書への伝統的な信仰が否定される事態になったわけです。

 なお、予定説などは秘蹟を中心とするカトリックや正教では受け入れられていないことは勿論ですが、正統的なキリスト教会にあって、内容面でまったく異なるわけではありません。(信仰によって救われることを説いたルター夫妻)

 さて救いについて聖書を見るなら、エペソ1:5などで「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とあり、2:5にも「あなたがたが救われたのは恵みによる」とあリます。また預言者エレミヤもエレミヤ1:5で 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあるように、神は私たちが形造られる前の霊の創造の段階ですでに選ばれ、み心の計画と召しを与えられていたと思わなければなりません。

 しかしそれは私たちがロボットのように、意のままに動かされる操り人形としてではなく、アダムのようにいつでも背く自由をも与えられていたことを忘れてはならないでしょう。人間の自主的な聞き従い、そこに人間の意思があり、神の愛が伴って働くのです。ですから救拯論の論争も、神の絶対的恩寵を強調するか、あるいは人間側の意思をも尊重される神の愛を強調するかの違いであって、リベラルな考え方の前に、これは大同小異であったというのが落としどころでは無いでしょうか。
 救いは罪の自覚から来ます。罪が自覚できなければ、あるいはわからなければ、救いは無意味です。神の恵みも存在しません。これがある意味、選びの基礎です。アダムは自由意志を創造者のためではなく、自分のために用いてしまいましたが、これを罪といいます。仮に「より自分を引き上げたい」というつもりで神を信じたのであれば、深刻な悔い改めなくして真に救われることはできません。信仰告白をし洗礼を受けて「天国へ行ける」切符をゲットしたつもりでも、それは偽りの所作になります。その後もまったく世的、肉的な変わらない暮らしを続けているのであれば、それは神をあざむくことになります。なぜなら、十字架においてキリストは私たちを代価を払って買い取ってくださったのであり、キリストを信じた者はもはやキリストのしもべなのです。もはや自分は主人でなく、主人は神です。その神に聞き従っていないとすれば、逃亡奴隷か、偽りの告白をしたことになるのです。

 こんなたとえ話があります。「自分の船の甲板上で、乗組員に殴打されて意識を失った船長が、気付け薬のおかげで生き返り、自分を助けにやって来た他の船の船長の、船の指揮を取ろうという申し出を受け入れる場合、受け入れる船長には何の功績も無い」という話です。これは十字架を信じた私たち一人ひとりのことを適切に表現していると私は思いました。私たちの神の国は、入れるからといって何の功績も私たちにはないのです。ただ神の申し出を受け入れて、打ち負かされていた自分の現状から、真の平和を得ただけなのです。
ハレルヤ!私たちは救いのすべてを神の恵み、栄光としてほめたたえましょう。

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