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2020年10月

2020年10月25日 (日)

主に喜ばれるかどうか

Ⅱコリント 5章9節  【新改訳2017】

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

 私たちがこの世で、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れています。やがて天に行き、キリストの前に立った時、地上で行ったことすべてに応じて報いを受けます。この「キリストの前で」とはキリストの地上再臨のことで、その時の報いはすべてのみ使いたちの前で行われるため、私たちめいめいの守護天使が、行いのすべてを読み上げるかもしれません。
 さてその報いとは、1テサ2:19のような栄冠だけでなく、1コリ3:10以下にあるように、世的な富(木、草、藁)はみな焼けて天に持って行けません。ただし最悪な場合でもクリスチャンなら、火の中をくぐるようにして助けられます。それゆえ裁きではなく、報いの時と言われているわけです。

 この天での報いについて、神を信じる者としては無関心ではいられません。タラントの話(マタイ25:15~)でも明らかなのように、評価の基準はこの世での力や人間的な賜物としての能力ではないことが分かります。要は信仰が無ければ出来ないことですが、神への忠実さの問題であることが分かります。聖書に忠実であること、及び何よりも聖霊に聞き従うこと、さらに自ら進んで神のみこころを行おうとすることです。聖書も聖霊による解き明かしがなければ理解できませんし、心に響きません、力にもなりません。まして神に聞き従うことなどは、サムエルのように聞けないと従うことは出来ません。誤解している方がいらっしゃるかも知れませんが、これは人に聞き従うことではないことに注意してください。あくまで神に、対してです。

 さて神に聞き従うためには、聖霊によって神がこの世に実際に生きて働かれるお方であることを個人的に体験していなければ、聞き従うことは出来ません。そのことによって、その人にはコペルニクス的な価値観の転換が起こっているはずです。それがなければ、神の声を聞いたと思っていたとしても、それは単に自分の観念の中、思い込みのものに過ぎず、遅かれ速かれ挫折します。挫折するので、それが肉的なものであったことが分かります。しかし真に聖霊の満たしを体験したのであれば、挫折はあり得ません。

 聖霊によって罪深さを教えられ、自己を明け渡して神のものとされた人は、すべての点において自分の行おうとすることが「主に喜ばれることかどうか」吟味します。主を知っているので、主のみこころ、主が喜ばれることが分かるからです。こうして残りの世での人生を、キリストのために喜んで生きるようになります。自分の為に生きていた時代は不安と肉欲で自分自身が翻弄されていましたが、神に捧げ尽くしてはじめて、思い患いの一切から解放され、平安を得ます。これはキリストが十字架によって勝利をとられたように、パラドックス(逆説)的な解決なのです。

2020年10月18日 (日)

血の契約

✝ ヘブル 9章12節    【新改訳2017】

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の願いを成し遂げられました。

 本日の題は、これまでの神殿で罪の贖いとしての動物の犠牲ではなく、新たにキリストが「ご自分の血によって(つまり十字架によって)罪の贖いを成し遂げられた」というへブル9章12節からとっている。しかもキリストの罪を贖う犠牲は一度だけで完全であり、永遠のものであることが述べられている。

 世界と人間を造られた聖なる神ご自身が、その造られた被造物に過ぎない肉なる人間のために、神が肉の形となって人間の一切の罪を引き受けられ、清算された、これに何の不足があるだろうか?たとえ人が何億兆人居ようとも、キリストの犠牲からはおつりの山が出ることだろう。神の愛はイエス・キリストを通して完成している。これを信じる者は確実に救われるのだ。

 ところでこの恵みを「信じる」と言うことをみても、言葉は一つであっても本当に信じるまでの信じ方は実に濃淡(グラディエーション)があることに気づく。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ 10:9)
聖書に「信じるなら救われる」とこのようにあるのだが、どのように心で信じている程度は、外部の人には窺い知れない。あるいは当人自身にすら測り知れない面もあるだろう。ただ神だけがご存知である。

 「縁無き衆生は度し難し」と言う仏教の言葉があるが、自分の罪を自覚できない人は、神の選びからは遠いと言える。救われなければならない自分の罪に気づくことが、十字架の第一歩だ。自分の永遠のいのちを救うために神を信じながら、自分自身に死ななければならない、これが「自分を捨て」とキリストが私たちに説いた神の言葉である。神を真に信じた人には、聖霊によって揺るがされない「確信」が与えられる。信じた喜びが溢れ、主日礼拝を欠かさないだろうし、情緒面も肯定的に積極的になる。
 また良心が咎められて、父のみこころを損なうことに痛みが生じるのも特徴だ。また神の子として天への確信を堅く握っている、これらが本当に信じている「血の契約」の「実」であって、さらに聖霊のバプテスマを受ける土台でもある。

2020年10月11日 (日)

御霊に導かれる

✝ ローマ 8章14節   【新改訳2017】

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 本日の聖書箇所は「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」ですが、これには注意が必要です。これを「クリスチャンはみな神の子ども」と解する人が多いのですが、その前提である「神の御霊に導かれる人は」を無視してしまいがちであることです。つまりバプテスマを受けていても、その人が御霊に導かれ(続け)ていなければ、神の子と言えるかどうかわかりませんよ」という風にも理解できるのです。

 多くのキリスト教会では三位一体の神と子なるキリストは強調しますが、聖霊なる神についてはそうではありません。勿論否定はしませんが、聖霊派やカリスマの教会ほどではありません。しかしこの聖書箇所から見れば、御霊つまり聖霊なる神との親しい交わりを抜きにして、神の子というクリスチャンの特権は怪しいものなのです。

 この前節の13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」とありますが、御霊に生きる人には明確なしるしがあります。それは御霊によって、あるいは依り頼んで肉の行いを殺していることです。そのような人は神の子どもなのです。

 からだの行いって何でしょうか? 妬み、怒り、人を恐れ人を憎んでいる、要するに世の人と何ら変わらぬ人であって、いつも自分を守ることに汲汲としています。そのような自分に疑問を感じませんし、たとえ変えようと思って努力し、牧師に祈ってもらったとしても無理です。普通の人なら自殺するか世捨て人になるしかない罪の深さは、到底受け入れることは困難です。しかし神のあわれみと愛が聖霊様を通して注がれれば別です。自分の罪深さを知れば自分自身に対する希望を捨て、十字架が自分の罪のためであったはっきりわかります。これは聖霊の力であり、選ばれた人であるしるしです。他の人にない、ちょうど主がたどられたように、受難の道を通らされた道の結果でもあります。

 神の子は例外なく、聖霊の油注ぎを受けています。そのような人は、自分が価値があると思っていた一切が、まるで<糞土>のように思える変革が起こした経験を持っています。神の子は、それ以後、聖霊の力に導かれ支えられ、己の肉なる思いに戦いを挑み続けることになります。それまでの自分を騙してきた憎き肉なる思い、世の力、それから生じる行ないに勝利を得ようとし、実際に真の解放と天的な喜び、恵みを体験します。このようなクリスチャンはからだはたとえ世に在っても、天にある父の子の一人として父のみこころの道を歩むのです。
 どうかお一人おひとりがそのように神様に祈り、求めて行っていただきたいと思います。

2020年10月 4日 (日)

アバ、父よ

✝ ローマ 8章14-15節         新改約2017

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ガラテヤ4章5-6節   新改約2017

5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

 私が子どもの頃、父の役場という父の職場によく出入りし、庁舎内のどこを行こうがまったく咎められることはありませんでした。長じてこれは「不思議なことだった」と思っておりました。ところが今朝ほど、それはすべて私が父の子であることで、看過されていたんだなということがわかりました。確かに父は長く特別職である収入役でした。それだけでなく、ポイントは職場の全員が父の子としての私を知っていたということです。どうしてそんなことがあったのでしょうか。それは毎年、仕事始めが終わった一月四日の午後、私の家で役場の全職員が集まって新年宴会を開いていたことです。その宴会が興味津々で、一人混じって出ていたのでした。つまり庁舎内をうろつき回るこの怪しげな子は、全員が誰の子か即座にわかっていたのです。

私たちが天のお父様のことを「アバ、父よ」と呼び、その子どもであるということは、つまり天国は自分の家になるわけであって、子である私たちは何の臆する所もなく、すべてを享受できるのです。やがてこの地上に降りてくる栄光に包まれた天のエルサレムが天国です。今この地上では取るに足らない存在の私たちですが、それがどれほど光と栄光に満ちた恵みであることか、いくら想像しても及びつかないことだと思うのです。

 ただし、すべては「子である」という前提の話です。私たちはどのようにして自分が神の子であることを知るのでしょうか。勿論、実の子はイエス様です。わたしたちは養子ですが、しかし子としての特権は世での養子と同じように与えられるのです。養子であるなら、自分が神の子とされた、籍が天に移されたと知れるのは何によってでしょうか。「神の言葉と聖霊によって」です。
 本日の聖書箇所ローマ8:15には「子とする御霊のを受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と叫ぶ」とあります。<※ガラテヤ4:5-6も同様> この、子としての実質はローマ8:23によると御霊の体になってからということがわかります。クリスチャンの葬儀は「ハレルヤ!」である理由でもあります。
 さて神によって世界の基が据えられる前から、私たちは御国を受け継ぐ子とされて<エペソ1:3-5>いたのですが、その保証は聖霊だと続く14節にあります。本日の聖書箇所でもそのように、父なる神は聖霊を私たちに遣わされ、その聖霊によって「アバ、父よ」と私たちが叫ぶとあります。御霊によって子とされた私たちは、地上ではその御霊に導かれ召されてそれぞれの使命を全うして行きます。聖霊に満たされれば満たされるほど、地上でのことは取るに足りないことであって、私たちは天への希望に満ちあふれて行くのです。

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