主に喜ばれるかどうか
✝Ⅱコリント 5章9節 【新改訳2017】
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
私たちがこの世で、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れています。やがて天に行き、キリストの前に立った時、地上で行ったことすべてに応じて報いを受けます。この「キリストの前で」とはキリストの地上再臨のことで、その時の報いはすべてのみ使いたちの前で行われるため、私たちめいめいの守護天使が、行いのすべてを読み上げるかもしれません。
さてその報いとは、1テサ2:19のような栄冠だけでなく、1コリ3:10以下にあるように、世的な富(木、草、藁)はみな焼けて天に持って行けません。ただし最悪な場合でもクリスチャンなら、火の中をくぐるようにして助けられます。それゆえ裁きではなく、報いの時と言われているわけです。
この天での報いについて、神を信じる者としては無関心ではいられません。タラントの話(マタイ25:15~)でも明らかなのように、評価の基準はこの世での力や人間的な賜物としての能力ではないことが分かります。要は信仰が無ければ出来ないことですが、神への忠実さの問題であることが分かります。聖書に忠実であること、及び何よりも聖霊に聞き従うこと、さらに自ら進んで神のみこころを行おうとすることです。聖書も聖霊による解き明かしがなければ理解できませんし、心に響きません、力にもなりません。まして神に聞き従うことなどは、サムエルのように聞けないと従うことは出来ません。誤解している方がいらっしゃるかも知れませんが、これは人に聞き従うことではないことに注意してください。あくまで神に、対してです。
さて神に聞き従うためには、聖霊によって神がこの世に実際に生きて働かれるお方であることを個人的に体験していなければ、聞き従うことは出来ません。そのことによって、その人にはコペルニクス的な価値観の転換が起こっているはずです。それがなければ、神の声を聞いたと思っていたとしても、それは単に自分の観念の中、思い込みのものに過ぎず、遅かれ速かれ挫折します。挫折するので、それが肉的なものであったことが分かります。しかし真に聖霊の満たしを体験したのであれば、挫折はあり得ません。
聖霊によって罪深さを教えられ、自己を明け渡して神のものとされた人は、すべての点において自分の行おうとすることが「主に喜ばれることかどうか」吟味します。主を知っているので、主のみこころ、主が喜ばれることが分かるからです。こうして残りの世での人生を、キリストのために喜んで生きるようになります。自分の為に生きていた時代は不安と肉欲で自分自身が翻弄されていましたが、神に捧げ尽くしてはじめて、思い患いの一切から解放され、平安を得ます。これはキリストが十字架によって勝利をとられたように、パラドックス(逆説)的な解決なのです。
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