血の契約
✝ ヘブル 9章12節 【新改訳2017】
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の願いを成し遂げられました。
本日の題は、これまでの神殿で罪の贖いとしての動物の犠牲ではなく、新たにキリストが「ご自分の血によって(つまり十字架によって)罪の贖いを成し遂げられた」というへブル9章12節からとっている。しかもキリストの罪を贖う犠牲は一度だけで完全であり、永遠のものであることが述べられている。
世界と人間を造られた聖なる神ご自身が、その造られた被造物に過ぎない肉なる人間のために、神が肉の形となって人間の一切の罪を引き受けられ、清算された、これに何の不足があるだろうか?たとえ人が何億兆人居ようとも、キリストの犠牲からはおつりの山が出ることだろう。神の愛はイエス・キリストを通して完成している。これを信じる者は確実に救われるのだ。
ところでこの恵みを「信じる」と言うことをみても、言葉は一つであっても本当に信じるまでの信じ方は実に濃淡(グラディエーション)があることに気づく。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ 10:9)
聖書に「信じるなら救われる」とこのようにあるのだが、どのように心で信じている程度は、外部の人には窺い知れない。あるいは当人自身にすら測り知れない面もあるだろう。ただ神だけがご存知である。
「縁無き衆生は度し難し」と言う仏教の言葉があるが、自分の罪を自覚できない人は、神の選びからは遠いと言える。救われなければならない自分の罪に気づくことが、十字架の第一歩だ。自分の永遠のいのちを救うために神を信じながら、自分自身に死ななければならない、これが「自分を捨て」とキリストが私たちに説いた神の言葉である。神を真に信じた人には、聖霊によって揺るがされない「確信」が与えられる。信じた喜びが溢れ、主日礼拝を欠かさないだろうし、情緒面も肯定的に積極的になる。
また良心が咎められて、父のみこころを損なうことに痛みが生じるのも特徴だ。また神の子として天への確信を堅く握っている、これらが本当に信じている「血の契約」の「実」であって、さらに聖霊のバプテスマを受ける土台でもある。
« 御霊に導かれる | トップページ | 主に喜ばれるかどうか »
「十字架」カテゴリの記事
- 負い目のある者(2022.02.06)
- 御霊のからだのリアル(2022.01.16)
- その血によって(2021.08.01)
- 血の契約(2020.10.18)
- キリストのために生きる(2020.08.23)
コメント