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2020年11月

2020年11月29日 (日)

どちらが易しいか

マルコ 2章5・9節   新改訳2017

5節 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

9節 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。    

   屋根から吊り下ろされた中風の人を前に、「あなたの罪は赦されました」と、その先にある死をも覚悟しつつ、イエス様は並み居るパリサイ人の眼前で言われました。人間がそれを言うことは、自分を神、あるいは神と等しい存在とする冒涜罪であり、死に値することでした。それは現在でも決定的な事柄であることは同じです。もし、この直後に中風の人が癒やされなかったとしたら、です。しかしイエス様の言葉が真実である驚くべき癒やしの奇蹟が起こり、そうはなりませんでした。そうなると周囲の人は、イエス様が神、あるいは神に等しい人物なのか、それとも悪霊の力に依る癒やしなのか、どちらかに判定せねばなりません。この時、民衆は別でしたが、専門家であるパリサイ人の主だった人たちは、なんと後者を選びました。自分たちの権力と利害に目がくらんでいたのです。そのためイエス様は不法な十字架への道をたどることになったのです。

 本日のテーマですが、屋根から吊り下ろされたのは中風の病人です。本人も含め彼らは癒やされることを期待して吊り下ろしたのです。 「この方なら癒やされる」との信仰があったからでした。しかし案に相違して罪が赦されました。彼らが落胆したかどうかは分かりません。もちろんイエス様は癒やしを行えたのですが、真実な方は表面にではなく、根源に目を留められます。これをもって中風の人の病の原因は罪であったと解説する解説があります。しかしそうであれば、中風のような一般的な病気はおしなべて罪の結果だとする、パリサイ人の病の見方と何ら変わりはないことになります。そうでなく、私は中風の人は罪の許し、神の恵みを証する選ばれた証人なのだと思います。義人はいません。すべての人に罪があるのです。病にかかっていないからと、自らを義とするパリサイ人の前で、イエス・キリストによって罪が赦され、癒やされてることに、真の救いはただイエス・キリストを信じ、その罪が赦されることだと教えておられるのです。すべての人の代表として中風の病があったのです。発病するかどうかではなく、罪こそがすべての人の実相です。ですからこのことは福音そのものでした。そして後の十字架によって、救いが完成されたのです。

 たとえ体が癒やされても、をれは肉体が世に在る時だけの一時的なものです。十字架によって罪が赦され、神を信じる者となることこそ、永遠の救い、いのちを得る道です。イザヤ53章5節にある「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」この神の贖いの御業こそ、すべての癒やしの源です。罪の赦し、その宣言こそ、冒涜ではなく、神ご自身による救いの御業が始まった宣言でした。癒やしは神を信じ、救いへと至らせるためのものです。

2020年11月22日 (日)

聖霊の内住とバプテスマ

1コリント12章3節   新改訳2017

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

 本日の聖書箇所でパウロは聖霊の内住無しには、誰も「イエスは主です」と信仰を告白できないと言っています。「イエスは主」と告白するのであれば、神がご主人であり、自分はその<しもべまたは奴隷>に相当します。しかしながらそのことば通り、神に聞き従う、またはそのように願い聞き従おうと熱心に求める人は、実際にはごくわずかな方に留まるのではないでしょうか。もちろん信じて天に行けるのですが、聖霊を通しての神の力の現れは、それだけでは困難です。

 聖書(使徒8:14-17)において、ピリポのサマリアでの大きな伝道の収獲、人々のバプテスマには聖霊が伴っていなかったことが明らかになっています。エペソにおけるアポロのバプテスマも同様でした。後にパウロが主イエスの名によって聖霊のバプテスマを受けさせた(使徒19:1-7)のです。これらを通し、当初から水のバプテスマは聖霊のバプテスマとは、同一のものではないことが明らかです。考えてみれば弟子たち、特に筆頭弟子のペテロも「あなたは生ける神の子キリストです」と人類最初に告白し(マタイ16:16-17)ながらも、その直後にはサタンと言われたり、三度も主を否定したりと、ペンテコステ以降の力強い証し人ペテロとは別人です。これは聖霊を受けていなかったという最大の違いがあるからです。

 では「聖霊のバプテスマ」とは何でしょう。これは徹頭徹尾、神のものであり、神からのものであり、聖霊なる神と交わって神のみこころ行うはたらきです。九つある聖霊の賜物は聖霊のバプテスマを受けて用いられはじめますが、それとてその人を通して神が働かれただけです。確かにペテロやヨハネ、パウロを主は奇蹟やしるし、大いなるワザを行われましたが、その力は彼らの持ち物ではなく、器を通して現された神の力でした。神が彼らを通し、神のタイミングで行われた神の恵みです。ですからどんなに偉大な神の器が聖霊のバプテスマを受けられるよう祈ったとしても、もしみ心でなければ無理です。信じた全員に対し、神が聖霊のバプテスマを受けさせたいと願っておられるのですが、問題は人間の方であって、ふさわしくないままで恵みにあずかって受けることは出来ません。しかし大胆に聖霊のバプテスマを求めて祈ることは大切です。

 聖霊のバプテスマは、受けたしるしとして「異言」が出ることが言われています。そのことともに、私はこの世への見方、価値観の大転換が伴っていることが大切だと思っています。本当に神が居られることと、その一端に触れたのですから、それまで「主が」自分から転換し、文字通り、主を主として聞き従う歩みに入るからです。もし聖霊のバプテスマを受けながら神に真に聞き従う歩みをしないのであれば、その裁きは大きなものになると思われます。つまり主にいのちを捧げる献身の歩みに入ると言うことです。

 さて私たちは黙示録の七つの教会がどの時代にも存在してきたという説に立っていますが、現在の聖霊の働きが顕著になる時代、そのルーツを知ることも大切です。ペンテコステ派の起こりは、メソジストやホーリネス、クエーカーの影響を受け、アメリカのチャールズ・パーハム(左)が創立した「ただ聖書のみ」をモットーにしたベテル・バイブル・カレッジで1900年の大晦日、女子学生オズマンに按手をしようとしたところ、その場にいた人々から異言のワザが起こりました。その頃、ボニーブレアハウスで有名で後のアズサ街リバイバルとなるウィリアム・シーモア(中央)は黒人のため入学が許されず、学院の窓から講義を聴いていたそうです。翌年の1901年彼はロスでメッセージを始め、今日に至る後の雨につながる聖霊の賜物によるリバイバル時代が幕を開けたのです。キャサリン・クールマンのこの流れの中にあり、日本の中田重治(右)も強い影響を受け、今日のホーリネスの祖となりました。現在日本の大きな教会は、すべてこの流れの中にあり、それは勿論私たちにも影響を及ぼしているのです。

2020年11月15日 (日)

奇蹟~御霊の現れ

コリント 12章5~7節   新改訳2017  

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです

 キリスト教は奇蹟の宗教です。この信仰の上に、精緻で伝統に包まれた神学と多くの神学大学があります。キリスト教最大の奇蹟はイエス・キリストが処女マリアから生まれ、十字架で死なれた三日後に復活されたことでしょう。神が直接された奇蹟です。一方、神が人間を通してされた奇蹟で最大のものは海を開き、何百万人ものイスラエルの民を、乾いた地を通らせてエジプトから脱出させたことでしょう。これはモーセの栄光ではなく、ただ神を信頼し、神に聞き従って杖を差しのべたモーセを通して起こった神の働きでした。
 最大の預言者エリヤもたくさんの奇跡を行いました。シドン人の女の息子を生き返らせ、天からの火によってバアルの預言者450人を聖絶し、数年にわたる干ばつも予告しました。エリヤは預言者でしたから、これらはただ、神の語られるままに語った結果現された神の栄光でした。
 ですからこと人うぃ通してのいかなる奇蹟も神の力そのものであり、神の栄光でした。人はその通り良き管、器に過ぎません。ただし、神と親しく交わり、謙遜と忠実さ、すべての栄光を神に帰す聞き従いが求められるのです。ほんのわずかでもそれを自分のものにするなら、サウル王のように、かえって大きな裁きを自らに招くのです。

 私たちは奇蹟を求めています。しかしそれは完全に神のみこころに従ってのものでなければなりません。肉親が病で倒れたり、または自分が信仰による迫害を受けていようとも、私たちは神の子、神のものなので、一切神が許されたことです。アブラハムの信仰、ヨセフの試練、モーセの聞き従い、これらに共通しているのは試練を通しての信頼と忍耐です。
 私たちは現状から神に癒やしや救いを求めますが、それ以上に、神は最善しか為されない信仰の土台を揺るがせてはなりません。神のみこころを求め、最後まで神への従いを全うしなければなりません。たとえどんなに奇蹟しか望めない、人間的には絶望的な状態であろうとも、奇蹟を起こされようと起こされまいと、最善であることを疑ってはいけません。失望こそ、神を自分の思い通りにしようとした最大の不信仰になるのです。
 多くの奇蹟、癒やしを行ったラインハルト・ボンケは「奇蹟は福音の真実を確証させる」為のものであると言いました。ですから彼は奇蹟を通して神が生きて働かれる真実な存在であることを実証し、信じられないほど多くの人々を救いに導くことができたのです。彼は奇蹟はすべて神のものであり、神の働きであり、イエス様がされたことを証ししました。私たちはこの奇蹟を日本に待ち望むのです。

2020年11月 8日 (日)

行け、あなたのその力で

士師記6章14節    2017新改訳

すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 この士師記の聖句は、前年度たびたびギデオンのことが語られていましたので、私がこれになるのでは無いかと予想した所ですが、残念ながらまったく違っていました。また「あなたのその力で」に少し引っかかっていたこともありましたが、しかしよくよく思い直してみますと、これが実にすばらしいみ言葉であることに気づきましたので、このまま教会の年間聖句にしました。

では何がすばらしいかと言いますと、「あなたのその力で」と言うところです。この現状からでなく、少しは努力したり、引き上げられたりしなければ、主のご用に立てないんじゃない?・・・そういう思いがしていたからです。しかし主はギデオンを召すのに、一切そのようなものは無用だとばかり「あなたのその力で」と語られたのです。ギデオンを遣わされた主は、私たちが牧師になったりする際の、神からの召命とまったく同じものです。

 ところが人によっては、神からのはっきりした召命を受けずに、人間的な思いで献身します。その結果、人間的な見方しかできず、神のみこころを行うどころか、逆にそのような忠実な人々に対し、混乱と迫害さえ行う者と化してしまうのです。神からのものでないのに、神からと間違って受け取ったらギデオンもこの召命が本当に神から来たのか、確かめずにはいられませんでした。これは当然なことだったと思います。もしそうでなかったら・・・・それは想像するだけでとんでもないことだからです。
 神は私たちの弱さをよくご存知であり、もしその召命が真に神からのものであれば、そのしるしを見たいという人間の願いに、神は必ず答えてくださるというのが私の確信です。逆に言えば、重大な決心のような際に、しるしを求めても得られなかったら、それは神からのものではないと言うことです。これは私自身の経験からのことであります。
 しるしには二つの目的があります。それは臨在のしるしを求めるものと、神のみこころを問うしるしとです。今回の場合はこの使いが本当に神からのものかどうか、臨在のしるしを求めるものでした。ギデオンは神の使いに対し、子山羊の贈り物を持って供えるので、しるしを見せて欲しいと頼んだのです。ギデオンは子山羊の肉と肉汁、小麦1エパで作った種なしパンを、指示された通りに供えました。すると神の使いが杖をそれに触れただけでそれらはたちまち火が燃え上がり、焼き尽くされてしまいました。これは後のイエス・キリストのひな形でもあります。

 ギデオンはこの臨在に、死すら感じ、恐れおののきました。みなさん、これが神をリアルに体験した瞬間なのです。神の使いは同時に消えてしまいますが、臨在の神を体験したギデオンは、同時に神の言葉が聞こえる存在になったのです。頭の上で神を信じている信仰と、本当に神の実在を体験した信仰とは、その強さはまったく別物です。これは私の経験的にもコペルニクス的な価値観の転換が起こると言えます。
 ですから神は次にギデオンに対し、その信仰をもっての宗教改革を要求しました。何と父の持っている「バアルの祭壇とアシェラ像を切り倒せ」と命じられたのです。父の、となっていますが、それは町の人々も信仰しているものでしたので、これを勝手に破壊することは命掛けでした。献身の証しでもありました。これを恐れながらも忠実に従ったギデオンでしたが、それも臨在のしるしを確かに見たからに違いありません。こうして父ヨアシュが人々の訴えに取り合わなかっただけでなく、属するアビエゼル族全体にも主への信仰に立ち返る機会となったことは想像に難くありません。
 私たちもギデオンのように、それぞれの仕方で神に召されています。神は私たちの弱さを実際をご存知なのですから、足りないものを神ご自身がすべて備えてくださるのです。神から「行け、あなたのその力で」と聞いたなら、ぜひしるしなど確認されてから聞き従っていただきたいと思います。それが神からのものであれば、その願いに答えるなど天地万物の神にとっては朝飯前なのですから。



2020年11月 1日 (日)

9人はどこにいるのか ー癒やしor 救いー

ルカ 17章17節      新改訳2017 

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

 この「十人のきよめ」はルカだけの記事です。イエス様が「御顔をエルサレムに向け」てガリラヤからサマリヤ地方を通過しての山道を歩まれていた時、その国境の村での出来事でした。十人の重い皮膚病を患っている人たちの「私たちをあわれんでください」と叫ぶ声に、あわれみの主が答えられました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。アラムのナアマン将軍の癒やしがありますが、この十人はナアマンよりも素直に従い、その途中で全員が癒やされました。

 しかしこの十人の中で神を崇めるために戻って来た者は、ユダヤ人にとって外国人であるサマリヤ人一人だけでした。残りの九人は癒やされるために叫んであわれみを求めたのですが、それはただこの状態を脱したいだけの自分のためでした。たとえどんなに超自然的な奇蹟を見たとしても、それが生き方を変える真の神の力であることなどには関係なかったのです。まさに豚に真珠だったのです。

 そもそも奇蹟、奇蹟の癒やしは、近年ラインハルト・ボンケが心がけているように、神が真の神であることの証明として神が起こされるものです。それゆえ奇蹟が奇蹟を起こされた神への信仰に結びつかなければ、まったく無用なものとなります。
 サマリアの魔術師シモンは奇蹟の力を、使徒たちから金で買おうとしました。今日でもベニー・ヒンのように、非常に作為的に奇蹟や奇蹟の癒やしを演出し、人々を虜にしようとした動きがあります。しかし真の奇跡、癒やしを見分けながら、神を誉めたたえなかった九人のようになってはいけません。真の奇蹟は神からのものです。繰り返しますが、それが信仰に結びつかなかったならば、神から嘆かれることになるのです。

 戻って来た一人は、自分が重い皮膚病から癒やされたことに、自分の癒やしよりももっと大切なこと、全能の神が実際におられることに気づいたのです。それは彼にとっては癒やしよりもはるかに大切な気づきでした。肉体の命はいずれ必ず滅ぶものですが、永遠の神がおられ、神を信じ従う者はその永遠のいのちの恵みにあずかります。戻ってきた彼の信仰は詳細には不明ですが、彼は体が癒やされただけでなく、たましいの拠り所が見つかった喜びで満ちていたのです。

 この後しばらくして患難時代が来るでしょうが、癒やしを求めてくる人々に対し、私たちは徹底して癒やしは神のものであること、神に栄光を帰すこと、癒やしの神を信じなければならないこと、つまり「信仰による救い」を伝えましょう。「九人はどこにいるのか」の声を聞くことが無いように。

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