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2020年11月 1日 (日)

9人はどこにいるのか ー癒やしor 救いー

ルカ 17章17節      新改訳2017 

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

 この「十人のきよめ」はルカだけの記事です。イエス様が「御顔をエルサレムに向け」てガリラヤからサマリヤ地方を通過しての山道を歩まれていた時、その国境の村での出来事でした。十人の重い皮膚病を患っている人たちの「私たちをあわれんでください」と叫ぶ声に、あわれみの主が答えられました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。アラムのナアマン将軍の癒やしがありますが、この十人はナアマンよりも素直に従い、その途中で全員が癒やされました。

 しかしこの十人の中で神を崇めるために戻って来た者は、ユダヤ人にとって外国人であるサマリヤ人一人だけでした。残りの九人は癒やされるために叫んであわれみを求めたのですが、それはただこの状態を脱したいだけの自分のためでした。たとえどんなに超自然的な奇蹟を見たとしても、それが生き方を変える真の神の力であることなどには関係なかったのです。まさに豚に真珠だったのです。

 そもそも奇蹟、奇蹟の癒やしは、近年ラインハルト・ボンケが心がけているように、神が真の神であることの証明として神が起こされるものです。それゆえ奇蹟が奇蹟を起こされた神への信仰に結びつかなければ、まったく無用なものとなります。
 サマリアの魔術師シモンは奇蹟の力を、使徒たちから金で買おうとしました。今日でもベニー・ヒンのように、非常に作為的に奇蹟や奇蹟の癒やしを演出し、人々を虜にしようとした動きがあります。しかし真の奇跡、癒やしを見分けながら、神を誉めたたえなかった九人のようになってはいけません。真の奇蹟は神からのものです。繰り返しますが、それが信仰に結びつかなかったならば、神から嘆かれることになるのです。

 戻って来た一人は、自分が重い皮膚病から癒やされたことに、自分の癒やしよりももっと大切なこと、全能の神が実際におられることに気づいたのです。それは彼にとっては癒やしよりもはるかに大切な気づきでした。肉体の命はいずれ必ず滅ぶものですが、永遠の神がおられ、神を信じ従う者はその永遠のいのちの恵みにあずかります。戻ってきた彼の信仰は詳細には不明ですが、彼は体が癒やされただけでなく、たましいの拠り所が見つかった喜びで満ちていたのです。

 この後しばらくして患難時代が来るでしょうが、癒やしを求めてくる人々に対し、私たちは徹底して癒やしは神のものであること、神に栄光を帰すこと、癒やしの神を信じなければならないこと、つまり「信仰による救い」を伝えましょう。「九人はどこにいるのか」の声を聞くことが無いように。

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