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2020年12月

2020年12月27日 (日)

神に愛される

黙示録3章19節  新改訳2017

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 最初に絵本<大切なきみ>の朗読をしました。このお話の中で、人々が互いに比べ合い、その優劣に囚われている姿が、シールの貼り合いで表されていました。確かに私たちは優劣の価値観で互いを判定し、金ぴかの星シールやダメージを貼りまくりそのことに疑問を持っていません。

1227_20210201020901教会においてすら、競い合うケースがあるようです。しかしこの絵本のように、造り主である神は、たとえ世の見方と異なって、個々人を最善に造られているのです。ただそれがわからないだけです。その作り主の愛と御心に従って生きることの方が、決定的に重要なことであるのはもちろんです。

 昨日、バイトしている放課後ディで二人の中学生をきつく叱りました。リーダー的な存在のはずの子たちなのですが、英語の学びの時間になっても、自分がしたいことを続け、いくら注意しても意図的に無視したためでした。他人である者が叱れば、その後も大変なケアが待っています。しかし一旦「自分勝手な行動が通る」と学んでしまうと、その後、その成功体験を正すことはかなり大変です。子どものわがままを許容することで、降りかかる煩わしさから自分を守ったかも知れませんが、それはその子たちを愛しているとは言えません。
 まして神さまであれば、子である私たちの勝手な思いや行い、わがままを叱られないことはあり得ません。実際、私は褒められることはほとんどなく、叱られることの方が圧倒的です。しかし、叱られても叱られても、それはむしろ当然であって、かえって神さまの愛を感じます。もし「叱られたことがない」と言われるならば、かえってその方は私生児です。または、神の訓練の段階に入れない乳飲児の状態なのでしょう。

 この絵本を子ども向けだと思わないでください。晩節を汚す人、退職していつまでも上役気分が抜けない人、伴侶を送ったばかりに生きる気力すら湧かない人など、この絵本に該当するクリスチャンのなんと多いことでしょう。私たちは、主によって懲らしめられなければ成長できない存在なのです。それは愛されている子の特権です。最後にヘブルの12章の御言葉を受け取りましょう。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。主が訓練しない子がいるでしょうか。すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって本当の子ではありません。」

2020年12月20日 (日)

サタンの基本戦略

エペソ 6章 11節    新約聖書2017

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 聖書では明瞭なのに、サタンや悪霊が存在することを認めていないクリスチャンがいます。また認めてはいても、悪霊はどこか外にいて自分を攻撃するものであって、自分の内に見い出す方も少いのではないでしょうか。これらはすべて誤った認識をしています。確かに外から来る場合もありますが、先ず自分自身が生まれながらの罪人であったこと、その結果、これら悪しき存在から解放されなければならなかったことを忘れています。サタン、悪霊は自分自身の内に、根罪深い罪の性質の内に、巧妙に巣くっているのです。「自分を良い存在に」「自分の成長の為に」とか、「ことさら自分を引き上げよう」とする動機のすべては罪の性質であって、悪霊的です。

 イエス・キリストは私たちのこの罪のために十字架に架かり、身代わりとなって罪を贖ってくださいました。ですから信じた者には罪から解放されました、そのはずですが、実際にはクリスチャンとなっても、自分の罪に苦しむことが多いのです。福音は無効なのでしょうか? いえ、そうではありません。自分に死んでいないからです。
 マタイ12章43-45節に、追い出された悪霊が、戻ってみると部屋はきれいに掃除されており、そこで七つの悪霊を連れて来たので、その人は前より悪くなった話があります。クリスチャンは悪霊を追い出す権威を持っていますが、追い出した心の王座に聖霊様が代わりに住んでくださらないと、悪霊が戻って来て前より悪くなるという警告なのです。ですからイエス・キリストを信じるということは、自分を捨て、心の王座に神様を置く(つまり自分は神に従う僕)ことです。そこが中途半端で、自分という肉が残っていると、その肉が悪霊の攻撃を受け、支配もされてしまうことになるのです。

 私たちはこの敵の攻撃の特徴を知る必要があります。彼らの基本は「人に自分の真の姿をわからせず、正体を隠して住み続ける(支配する)」ことにあります。そこでのキーワードは<支配>であり、<だます>です。彼らは貪欲にこの二つの特徴を基本である正体を隠しつつ実行します。たまにそれを見破ったクリスチャンが警告しても、彼らは自分自身を守るために、愛を持って忠告してくれた人や教会を攻撃するのです。教会はキリストの御体であり、クリスチャンはその肢体の一部として、神と教会に仕え、問題があっても建設的な提案をするのが当然であり、使命でもあります。しかし悪霊に支配された人の特徴は、そのような人を攻撃して教会を混乱させ、神の使命を奪うことです。私たちはサタンの基本戦略を知り、御心の対応することで、常に神の使命と御心を全うして行き続けなければなりません。satannno 

2020年12月13日 (日)

エクソダス

使徒 7章 25節    2017新改訳

モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 エクソダス(Exodus)とは移民など大勢の人々の出国、脱出を意味します。そしてこれは出エジプト記、イスラエル民族のエジプト脱出の意味でもあります。

 モーセは40歳の時、自民族、同胞を顧みる心が起こり、自分の民族、イスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、その人をかばいついでにそのエジプト人を殺してしまいました。モーセにしてみれば良いことをしたつもりでしたし、これを機に王族である自分を通し、イスラエル人が救われれば…と思っていたようでした。ところが意に反し、イスラエル人はモーセをまったく受け入れませんでした。それどころか自分たちに非が及ばぬよう訴え出た形跡があります。
 これではモーセは即刻、エジプトの勢力圏外、辺境のミディアンの地にまで逃亡するしかありませんでした。王の娘の子という王族の華麗な立場から、雇われ羊飼いという最も最下層に落ち、その人生をそれまでと同じ40年かけて送ったのでした。今では80歳という老境に達し、若気の過ちと言うか、過去の良かれと思っての自分の肉的な思いで行動した酬いは十分に受け、骨身に浸みたことでありましょう。
 過去はともかく、そんな羊飼いで終わる人生のはずでしたが、燃える柴を通して一大転機が訪れました。神はここまで砕かれ尽くした人物を通してでなければ、エクソダスという偉大な奇蹟を行おうとされなかったのです。万が一にも神の栄光を奪い、聞き従いに肉が混じってはならないのです。
 今日、covit-19などより困難な時代が始まりつつあります。リバイバルなどを通し、世界中のクリスチャンの天国へのエクソダス(大出国)が始まろうとしています。我が国はキリスト教国になったことがありませんので、終末いきなり大規模な救いが起こり、それが即エクソダスへとつながって行くように私は示されています。

その中で大切なことは多くの試練を経てのモーセのような砕き、燃える柴のような召命、福音宣教に伴うしるしと不思議による確かな裏付け、この3拍子になるはずです。全知全能の神に、我が国同胞の救いを熱心に祈り、少しでもエクソダスの輪が大きなものとなるよう、祈り求めていきましょう。

2020年12月 6日 (日)

教会の使命~滅びゆく人々を獲ち取る教会

✝ローマ 10章 14節   2017新改訳

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

 私はキリスト教から隔絶した世界で育ち、一度も伝道されることもなく、ただ一冊の本を読んで<これが神だ>とわかった者ですから、福音宣教とか伝道の必要性にうとい者でした。「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる(マタイ3:9)」の実例でした。
 しかしバプテスマを受けて帰郷し、そのような社会に住んで感じたことは、身近に接する親類縁者、近所の葬儀は、全て救われていない人の葬儀になります。近郷近在のどんな墓地に行っても、十字架なんてただの一つもありません。みな滅びの国に行っているのです。いえ、この国全体を見ても、大なり小なりで、ほとんど同様です。これでは天国に日本人はほとんど居ません。悔しくもあり、本当に残念で、日本人として、この国を見捨てないでくださいと痛切に祈ってきました。

 この度今世紀最大の伝道者であるラインハルト・ボンケの伝記を読み、次の言葉からチャレンジを受けました。一週間以上にわたって寝ても覚めても脳裏から冷めないのです。
「積極的な伝道なしに、リバイバルが起こったことはありません」、数行後の我流訳で「永遠の滅びに行く人々に手をこまねいて傍観する教会は、すでに滅んでいます」の言葉でした。これは1986年、ボンケが主催したアフリカ中の牧師、伝道者を集めた「炎の大会」の中で語られた言葉です。

 ボンケの集会では実に多くの癒やしと奇跡が起こりました。続いて「誰があなたを癒やしましたか?主イエス・キリストがあなたを癒やされたのです」と徹底的に福音宣教第一にしていました。癒やしも奇蹟もそのためというのが徹底しているのです。先週も「信じること」と「癒やされること」の「どちらが易しいか」と題して語らせていただきましたが、どんな素晴らしい奇跡やワザが起こったとしても、信仰に結びつかないなら、帰ってこなかった9人のように空しいのです。

これから困難な時代に入って行き、その後刈り取りを迎えると思いますが、それゆえに収穫に向けての積極的な伝道が重要になります。ですからこれは確かに神から来たものであり、私たちはチャレンジを受けていると思います。そしてこれに答えて行く決心を致します。
ただ、闇雲に、肉的な力を持っての積極性ではなく、先ずは同胞への愛を深め、お一人お一人が神の愛に満たされ、愛に答えての献身、愛による伝道が前提でもあり、それは「祈り」によって成就して行くのです。神は私たちがこのために祈ることを求めておられるのであり、その中で自分自身を神に捧げ、神の御計画に積極的に応答して行くことに努めて参りたいと思います。

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