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2021年1月

2021年1月 3日 (日)

福音は先ず悔い改めから

マルコ1章14-15節   2017新改訳

15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 マルコの1章は毎朝の聖書日課の該当箇所ですが、気づきがありました。それは14「ヨハネが捕らえられた後」とありますので、イエス・キリスト様の本格的な宣教活動はバプテスマのヨハネが捕らえられて後、それと入れ替わるように始まったという点と、福音は「悔い改め」た上で信じるものであるという点です。この悔い改めこそバプテスマのヨハネが最も伝えたことですが、旧約の多くの預言者も同じことを言っていました。違っていたのはその仕上げにふさわしく、そのしるしとして水でバプテスマを授けたことです。本来バプテスマという言葉は<浸す>という意味であり、全身を水に沈めることで死を現し、再び引き揚げることによって新しく生まれたことを象徴するものです。
今では教会員になる入会の儀式とか、単に形式だけのように見られやすいバプテスマですが、実は真摯な悔い改めが前提のものでした。悔い改めとは反対方向に向かうこと、または完全に変わることでもあります。ですから「悔い改めた」という単に言葉だけの表明に留まらず、自分という自我が死んで滅び、入れ替わりに福音の主が自分の王座となって新生した・・・・その実質が求められていたはずです。

 このように「悔い改め」は当人の心の一大転換を伴うものでしたが、その悔い改めは、自分の真の姿、何の希望も見出せない罪深さの自覚がなければ不可能です。この世で富める若人や高い地位にあるパリサイ人などは世の霊に支配され、高慢があるので悔い改めることはラクダが針の穴を通るように、狭き門です。また悪霊に憑かれている人は、自分自身の真の姿を偽られてわかりませんから、悔い改めることが困難です。しかしレギオンを宿していたゲラサ人、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアのように、もし神によって悪霊から解放されるなら、かえって大いなる働き人に変えられる例もあります。

 全くの別人になるほど心から悔い改めるには、人間の力では不可能ですし、そのジャストタイムで神が臨んでくださり、入れ替えて神をお迎えするのでなければ、却って前より悪くなります。太宰や芥川のように自殺するしかない状態になります。ですから神に覚えられ、祈りを知っていた人は幸いです。絶望し悔い改めのあなたに、トントンと扉を叩いて神の方で呼びかけ、語りかけてくださるからです。神は押し入って占領しようとする悪霊と異なって慎み深く、私たちの意思を尊重されるお方なのです。

 私たちはこの神に悔い改めた自分を捧げるのです。悔い改めなければ救われません(ルカ13:3-5,使徒2:38など)。真の悔い改めは、自分の罪の贖いとしての十字架がわかり、喜んで自分を神に差し出し、神のもの、そのしもべとなることに感謝します。そこではじめて、自分がどうにもならない自我から解放され、自由にされたことがわかるのです。よいでしょうか。自我は肉の思いであり、それはサタン・悪霊の領域に属しているのです。妬みや自己主張、肉欲、人を愛せないことなどすべて、その中に自分が居ることを表しています。勿論、即別人になるわけではありませんし、執拗に罪深い性質が残っています。しかし神が愛していてくださっていること、神は愛する子を見捨てられることはされず、神の力によって私たちは変えられ、必ず永遠のいのちを受けて天の御国に行くのです。これが私たちの信仰です。ただ真の悔い改めと、主イエスを主として受け入れ、聖霊様に聞き従い続けましょう。

 

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