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2021年1月

2021年1月31日 (日)

神にはえこひいきは無い

✝ ローマ 2章11節   2017新改訳

 神にはえこひいきがないからです。

 一羽の雀さえも、その命を惜しまれる神。また私たちの髪の毛の数さえも数えておられる神。そのような方が、どうしてこの日本の国民をあわれんでくださらないのだろうか。天国に行けば、私の先祖たちはほとんど居ないのではなかろうか。

 これはほとんどが非キリスト教式のお葬式に行く私が、その度ごとに口惜しくて、いつも情けない思いにさせられた時の感情です。パウロは「私の心には大きな悲しみがあり、絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と言いましたが、それと同じような感情でしょう。確かに福音は戦後、日本を通り越して韓国で爆発的に広がり、どの町に行ってもその中心地には教会の十字架そびえています。そして今、迫害下の中国にあっては、その数は1億とも言われています。このままでは福音が日本を通り越したままで地球を一周し、終末が来てしまうのかも知れない。神は日本を見捨てられてしまわれたのだろうか。そんな焦りも出てくるのです。

 神は「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」(ローマ9:15)という言葉がありますが、これは一見神のえこひいきを表しているように見えて、実は神の主権を表しています。そう受け取ってしまうと「神の勝手ごと」と誤解しがちなのですが、そうではありません。神の絶対的な愛と平等が、ただ人の目には理解出来ないだけであって、「被造物である限界を受け入れなければならない」ということでしょう。神を信頼し、愛し、とことん信頼することこそが信仰です。
 神は人の心を見ていてくださるのです。神は私たちの霊と肉を造ってくださった創造主ですが、それにも関わらず、なおかつ私たちに委ねてくださっている決定的に重要な側面が人に委ねられているのです。それが、この信仰です。人に委ねられているのは、この信仰という側面です。

 結論から言えば、同胞への私の悲しみ、ある意味、神への不満は「私の思い上がり」でした。民族を超えて私たち人間には弁解の余地がないのです。被造物によって、あるいは私たちの心の中の罪によって、神が居られることがすべての人に分かる(ローマ2章)ように、人は造られているのです。神のなされることに偏りやえこひいきはなく、完全なのです。私たち日本人にはそうされる悔い改めてない理由があり、また今現在だけを見て、神がなされようとしている事を判断し断定してはならないのです。過去ははすでに終わったことであり、重要なことは、前を見て行くことです。まだこの国は終わってはいません。神がこれから私たちを用いて何をされようとしているのか、私たちは忠実な召使いのように、いつ主が来られても良いように、自分の十字架を負い、指名が果たせるように整え、整えられて行く必要があるのです。

「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」マタイ24章45~46節)

2021年1月24日 (日)

神の右の座に

  ✝マルコ 16章19節   2017新改訳

主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 バプテスマのヨハネが預言した主イエスについて、地上で果たされなかったことが一つだけあります。それは何だと思われますか? 答えは「聖霊と火によるバプテスマ」です。

 主は十字架で全人類の贖いをご自分の血肉の命を持っ果たされ、復活の後、天の神の右の座につかれました。右の座・・・まさにそれこそが預言されていた「聖霊と火によるバプテスマ」を授けるためだったのです。罪を赦す十字架によって、信じる者に聖い聖霊様が内住されることが可能になったのです。これが生前のイエス様に、聖霊と火によるバプテスマが無かった訳です。イエス様の地上での生涯も、実にこのためでした。

この神のstrategy(戦略・策略・計画)について、聖霊を受けた私たちも幾分かは知ることができます。元々人もサタンも同じ被造物でした。ですから人はサタンが考えるように考え行い、サタンもまた人の様に考え、行うのです。しかし、サタンの方が経験上、数段上手の存在であることは確かです。今日、私たちクリスチャンは世界中に、あるいは身近に、彼らを見分けることができます。教会においてすら、それは実によって見分けられるのです。Photo_20210201024001

 サタンについてですが、その知恵は人とそれほどの相違は無いと申しましたが、私たち人のアドバンテージ は、一見マイナスとも思える血肉の体があることです。この体があることに関しても、サタンは神の測り難い知恵と力には太刀打ち出来ません。一例を挙げれば十字架です。彼らはよもやこれが自分たちの滅びの決定打になるとは、想像もつかなかったはずです。そして最終局面で、イエス様が十字架の上で苦しんでおられるのを見て、勝利を確信した彼らは「十字架から降りて来い、そうしたら信じよう」などと愚かなことを言ったのです。しかし全人類の救いという大逆転をもたらすことになることをサタンは知らなかったのです。二千年経っていようと、未だにサタン属する霊にとって、「十字架の言葉は、彼らにとっては愚かな言葉」にしか思えないのですが‥‥‥

 サタンはイブへの誘惑から始まり、数千年も人間に対するノウハウを蓄積していますので、侮ることはできません。しかししかし神の知恵と力は、イザヤ55章9節にあるように、それこそ天と地という格段の差があるのです。私たちは自分の力に依ることなく、神に自分を捧げ、神の計画に聞き従い、神の計画と方法を実践して行くべきです。そうすればサタンに対し、私たちは圧倒的な勝利を得ます。しかしてそれは私たちの勝利ではなく、神の勝利です。一寸たりとも神の栄光を奪わないように、愛と謙遜を持って神を褒め称えましょう。ハレルヤ!

2021年1月17日 (日)

見ないで信じる者たちは幸い

✝ マルコ15章32節     新改訳2017

キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

 この世に生を受けて、自分の命に優る価値あるものを見つけた人は幸いです。命の目的、その使い道がわかるということは、真に人として生き人生を得たからです。先ほど、佐野洋子さんというノンクリスチャンの方の絵本、「百万回生きたねこ」を読みました。百万回死んでも死にきれなかった主人公の<どら猫>も、それを最後に見出したからこそ、仏教的には成仏というのでしょうが、満足し死ぬことができたのです。

 本当の神を知らない方でも、ここまではわかるのです。ですからクリスチャンが自分の命以上の価値=十字架がわからず、自分の命を惜しんでいたのでは話になりません。宇宙も世界も人をも創造された神が、私の身代わりに死んでくださったのです。神が永遠のいのちを与えてくださるために、その命を差し出してくださった愛に対して、いったい何をもって応えるというのでしょうか。100

 本日の聖書日課はマルコ15章です。この29-32節で、十字架上で死の苦しみにあるイエス様に対し、通行人や勝ち誇った祭司長やパリサイ人たちは嘲りの言葉で追い打ちをかけています。特に「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」の祭司長たちの言葉は、はからずもサタンの本音をさらしています。彼らには自分の命しか無く、それを超えた愛がわかりません。ラザロを蘇らせたイエス様ですから、それは簡単なことです。それなのに…イエス様の意図をはかりかねている様子が嘲りの言葉の中からうかがえます。しかし彼らには自分(地位や権威)を守ることだけであり、それを超えるものには、一切思いもよらないことなのでした。イエス様の十字架上での血肉の死は、血肉の命の死を無効にした勝利の瞬間となりました。彼らは永遠に打ち負かされたのです。まさに死は勝利にのまれてしまったのでした。

 「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです(マタイ10:39)」この言葉を、まずはじめに実践してくださったのが他ならぬご本人、イエス・キリストであったことは幾重にも感謝しきれないことです。血肉の自分の命を神に明け渡すことは自分の力では困難なことですが、「神にとって不可能なことはなにもありません(ルカ1:37)」のみ言葉通り、私たちはこころから祈っていきましょう。これを信じることが信仰であります。

2021年1月10日 (日)

恵みも満ちあふれる

ローマ 5章20-21節   新改訳2017

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 神は「愛」そのものなのに、なぜ神は審きをされるのだろうか?という疑問を抱く方がおられます。かつて私もそのように思ったものでした。しかしその疑問は、神様のご性質がまだよくわかっていない段階のものと思われます。なぜなら神様の愛は人間が考えるような愛とは、まったくレベルが違うのです。全知全能の存在は、人間が及びもつかない聖であり、義なるお方、光と真理に満ちた存在なのです。神は基本的には従うだけの存在である天使とは異なって、自由な意思と意見を持ち、ご自身と分け隔てなく交われる多くの聖徒たちを構成員として、真の天国をお造りになろうとしておられるのです。

 小学生だった頃、浄土真宗だった私の家に、折々その住職さんが読経と法話に来てくださったことを思い出します。特に「二河白道」の話は興味深かったのですが、幼いなりに一つの疑問がありました。貪りや執着心の水の川、怒りや憎しみの川の間の白い道を何とか行けても、その極楽浄土にたどり着いた所は本当に良いところなのだろうか、と。世の人とどこが違っているのだろうか、と。結局はこの世と変わらない世界だとしたら、意味ないと思ったのです。どうにも風変わりな子どもだったようです。
 13歳の時に小説で神を知り、15歳で探し当てた伝道所でキリスト教に接したとき、これが真の神であるとわかりました。疑問を解決する十字架が有ったからです。神は愛なる神ですが、同時に聖なるお方、義なるお方です。天国が本当に天国であるのは、赦されて罪から解放された人々、聖とされた人々の国であるからです。
 十字架無しに人々が義とされることも、聖とされることもありません。神の愛そのものの十字架こそ、世界でオンリーワンの真の宗教です。罪深い私たちを完全に贖ってくださった十字架の主イエス・キリストを、心から自分の罪を償ってくださった方だと信じるなら、その方は救われているのです。救われた人は、決してそれまでの人ではありません。その人に聖霊が内住されたからです。

 しかしクリスチャンになっても、それまでの(肉的な)自分との変化を感じない方が多いとしたら、深刻に自分自身を吟味していただきたいと思います。それは聖霊の内住があっても、聖霊様の方が僕とされている不遜な状態であるか、さもなくば偽りの信仰告白だったからです。神がご自分の血肉の命を捧げてくださったのですから、私たちもまず自分の命を捧げ、その僕となって聞き従う必要があります。その上でいのちの道が開かれます。その時人は、自分自身が最も自分を窮屈にし苦しめてきた敵であることに気付くでしょう。その時、審きはもはや意味を成さないのです。

2021年1月 3日 (日)

福音は先ず悔い改めから

マルコ1章14-15節   2017新改訳

15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 マルコの1章は毎朝の聖書日課の該当箇所ですが、気づきがありました。それは14「ヨハネが捕らえられた後」とありますので、イエス・キリスト様の本格的な宣教活動はバプテスマのヨハネが捕らえられて後、それと入れ替わるように始まったという点と、福音は「悔い改め」た上で信じるものであるという点です。この悔い改めこそバプテスマのヨハネが最も伝えたことですが、旧約の多くの預言者も同じことを言っていました。違っていたのはその仕上げにふさわしく、そのしるしとして水でバプテスマを授けたことです。本来バプテスマという言葉は<浸す>という意味であり、全身を水に沈めることで死を現し、再び引き揚げることによって新しく生まれたことを象徴するものです。
今では教会員になる入会の儀式とか、単に形式だけのように見られやすいバプテスマですが、実は真摯な悔い改めが前提のものでした。悔い改めとは反対方向に向かうこと、または完全に変わることでもあります。ですから「悔い改めた」という単に言葉だけの表明に留まらず、自分という自我が死んで滅び、入れ替わりに福音の主が自分の王座となって新生した・・・・その実質が求められていたはずです。

 このように「悔い改め」は当人の心の一大転換を伴うものでしたが、その悔い改めは、自分の真の姿、何の希望も見出せない罪深さの自覚がなければ不可能です。この世で富める若人や高い地位にあるパリサイ人などは世の霊に支配され、高慢があるので悔い改めることはラクダが針の穴を通るように、狭き門です。また悪霊に憑かれている人は、自分自身の真の姿を偽られてわかりませんから、悔い改めることが困難です。しかしレギオンを宿していたゲラサ人、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアのように、もし神によって悪霊から解放されるなら、かえって大いなる働き人に変えられる例もあります。

 全くの別人になるほど心から悔い改めるには、人間の力では不可能ですし、そのジャストタイムで神が臨んでくださり、入れ替えて神をお迎えするのでなければ、却って前より悪くなります。太宰や芥川のように自殺するしかない状態になります。ですから神に覚えられ、祈りを知っていた人は幸いです。絶望し悔い改めのあなたに、トントンと扉を叩いて神の方で呼びかけ、語りかけてくださるからです。神は押し入って占領しようとする悪霊と異なって慎み深く、私たちの意思を尊重されるお方なのです。

 私たちはこの神に悔い改めた自分を捧げるのです。悔い改めなければ救われません(ルカ13:3-5,使徒2:38など)。真の悔い改めは、自分の罪の贖いとしての十字架がわかり、喜んで自分を神に差し出し、神のもの、そのしもべとなることに感謝します。そこではじめて、自分がどうにもならない自我から解放され、自由にされたことがわかるのです。よいでしょうか。自我は肉の思いであり、それはサタン・悪霊の領域に属しているのです。妬みや自己主張、肉欲、人を愛せないことなどすべて、その中に自分が居ることを表しています。勿論、即別人になるわけではありませんし、執拗に罪深い性質が残っています。しかし神が愛していてくださっていること、神は愛する子を見捨てられることはされず、神の力によって私たちは変えられ、必ず永遠のいのちを受けて天の御国に行くのです。これが私たちの信仰です。ただ真の悔い改めと、主イエスを主として受け入れ、聖霊様に聞き従い続けましょう。

 

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