神にはえこひいきは無い
✝ ローマ 2章11節 2017新改訳
神にはえこひいきがないからです。
一羽の雀さえも、その命を惜しまれる神。また私たちの髪の毛の数さえも数えておられる神。そのような方が、どうしてこの日本の国民をあわれんでくださらないのだろうか。天国に行けば、私の先祖たちはほとんど居ないのではなかろうか。
これはほとんどが非キリスト教式のお葬式に行く私が、その度ごとに口惜しくて、いつも情けない思いにさせられた時の感情です。パウロは「私の心には大きな悲しみがあり、絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と言いましたが、それと同じような感情でしょう。確かに福音は戦後、日本を通り越して韓国で爆発的に広がり、どの町に行ってもその中心地には教会の十字架そびえています。そして今、迫害下の中国にあっては、その数は1億とも言われています。このままでは福音が日本を通り越したままで地球を一周し、終末が来てしまうのかも知れない。神は日本を見捨てられてしまわれたのだろうか。そんな焦りも出てくるのです。
神は「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」(ローマ9:15)という言葉がありますが、これは一見神のえこひいきを表しているように見えて、実は神の主権を表しています。そう受け取ってしまうと「神の勝手ごと」と誤解しがちなのですが、そうではありません。神の絶対的な愛と平等が、ただ人の目には理解出来ないだけであって、「被造物である限界を受け入れなければならない」ということでしょう。神を信頼し、愛し、とことん信頼することこそが信仰です。
神は人の心を見ていてくださるのです。神は私たちの霊と肉を造ってくださった創造主ですが、それにも関わらず、なおかつ私たちに委ねてくださっている決定的に重要な側面が人に委ねられているのです。それが、この信仰です。人に委ねられているのは、この信仰という側面です。
結論から言えば、同胞への私の悲しみ、ある意味、神への不満は「私の思い上がり」でした。民族を超えて私たち人間には弁解の余地がないのです。被造物によって、あるいは私たちの心の中の罪によって、神が居られることがすべての人に分かる(ローマ2章)ように、人は造られているのです。神のなされることに偏りやえこひいきはなく、完全なのです。私たち日本人にはそうされる悔い改めてない理由があり、また今現在だけを見て、神がなされようとしている事を判断し断定してはならないのです。過去ははすでに終わったことであり、重要なことは、前を見て行くことです。まだこの国は終わってはいません。神がこれから私たちを用いて何をされようとしているのか、私たちは忠実な召使いのように、いつ主が来られても良いように、自分の十字架を負い、指名が果たせるように整え、整えられて行く必要があるのです。
「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」マタイ24章45~46節)
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