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2021年1月17日 (日)

見ないで信じる者たちは幸い

✝ マルコ15章32節     新改訳2017

キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

 この世に生を受けて、自分の命に優る価値あるものを見つけた人は幸いです。命の目的、その使い道がわかるということは、真に人として生き人生を得たからです。先ほど、佐野洋子さんというノンクリスチャンの方の絵本、「百万回生きたねこ」を読みました。百万回死んでも死にきれなかった主人公の<どら猫>も、それを最後に見出したからこそ、仏教的には成仏というのでしょうが、満足し死ぬことができたのです。

 本当の神を知らない方でも、ここまではわかるのです。ですからクリスチャンが自分の命以上の価値=十字架がわからず、自分の命を惜しんでいたのでは話になりません。宇宙も世界も人をも創造された神が、私の身代わりに死んでくださったのです。神が永遠のいのちを与えてくださるために、その命を差し出してくださった愛に対して、いったい何をもって応えるというのでしょうか。100

 本日の聖書日課はマルコ15章です。この29-32節で、十字架上で死の苦しみにあるイエス様に対し、通行人や勝ち誇った祭司長やパリサイ人たちは嘲りの言葉で追い打ちをかけています。特に「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」の祭司長たちの言葉は、はからずもサタンの本音をさらしています。彼らには自分の命しか無く、それを超えた愛がわかりません。ラザロを蘇らせたイエス様ですから、それは簡単なことです。それなのに…イエス様の意図をはかりかねている様子が嘲りの言葉の中からうかがえます。しかし彼らには自分(地位や権威)を守ることだけであり、それを超えるものには、一切思いもよらないことなのでした。イエス様の十字架上での血肉の死は、血肉の命の死を無効にした勝利の瞬間となりました。彼らは永遠に打ち負かされたのです。まさに死は勝利にのまれてしまったのでした。

 「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです(マタイ10:39)」この言葉を、まずはじめに実践してくださったのが他ならぬご本人、イエス・キリストであったことは幾重にも感謝しきれないことです。血肉の自分の命を神に明け渡すことは自分の力では困難なことですが、「神にとって不可能なことはなにもありません(ルカ1:37)」のみ言葉通り、私たちはこころから祈っていきましょう。これを信じることが信仰であります。

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